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あの日たち |
25(完) |
車を降り、建物の方に向って歩き出す。 砂利を踏む足音が進む辺りだけ、虫の声がピタリと止み、まるで自分の周りだけバリアに包まれたような錯覚に陥る。 暗い駐車場には、ポツン、ポツンと間隔を置いて設置されている外灯があるだけで、それが辛うじて俺の影を薄く作っている。 建物の玄関はすでに明かりが落とされ、鍵が掛かっていた。 いつものことなので、俺はそのまま裏に回り、夜間外来の入り口へと向った。 窓口の守衛に挨拶をし、まっすぐに弘人のいる部屋に向う。 音もなく滑るドアを開け、弘人の眠るベッドの側に辿り着く。 「ただいま」 カーテンが少しだけ開いた窓からは、月明かりが差し込んで、弘人の顔を照らしていた。 寝ている弘人は今日も微笑んでいる。 ベッド脇の椅子に腰掛け、肌掛けの中から弘人の手を取りだし、そっと撫でる。 俺に手を握られても、弘人は眠り続けたまま、静かな呼吸を繰り返す。 温かい掌をゆっくりと揉みほぐし、指を握り、伸ばし、一本、一本撫でてやる。そうしてから今度は手首を持ち、両の手でそっと折り、また伸ばすのを繰り返す。 指先から肩までのマッサージを、時間を掛けて施していく。それが終わると次は足だ。 俺が前にただ寝ているしかなかったとき、弘人が俺にしてくれていた関節のマッサージを、今は俺が弘人にしている。 あれから弘人は一度も目覚めない。 坂道の途中で俺を出迎えて、その場で倒れたままずっと、眠り続けている。 あの雨の日のバス事故で、弘人は重大な怪我を負っていた。それこそ生きているのが奇跡だというほどの怪我を、脳に負った。 手術で何とか一命を取り留めたものの、衝撃で出血した脳内の難しい場所に血腫が出来ていたという。 弘人はそれを知っていた。 血栓予防の治療を続けながら、それがいつか、何かのきっかけで彼を襲うかもしれないということを知りながら、生活をしていた。 予兆はあったのではないかと、運ばれた病院の医者は言った。目眩や頭痛、歩行困難などの自覚症状があったはずだと。 いつからそれがあったのか。 いつだって、ゆっくりと歩いていた弘人。 グラスを続けて割っていた弘人。 何の前触れも無しに、引っ越しをしようとした弘人。 なあ、いつから覚悟していたんだ? だから、黙って俺の前からいなくなろうとしたのか? 眠っている弘人は答えてくれない。 ただ柔らかく笑みを湛えたまま、眠り続けている。 まあいいか。 起きたらゆっくり聞いてやることにしようと、話題を変えた。 「今日は隣の県まで行ってきて、薬の説明会に参加してきたよ」 マッサージの手を休めないまま、俺は今日の出来事を弘人に話す。 「地方からも沢山人が来た。緊張したよ。自分がメインでプレゼンするなんて初めてだからさ」 歴史の浅い俺の会社は、勤める者の平均年齢も若い。だから実績さえ作れば、俺のような者でも重要な仕事が回ってくる。 「でも手応えはあったと思うよ……多分ね」 微笑んで聴いてくれる弘人に話し続ける。 「弘人の助言通りだった。今の職場でよかったよ。楽しい」 濡らしたタオルで弘人の身体を清拭しながら語り続ける。看護師がきちんと世話をしてくれたらしく、その顔には無精髭も伸びてはいない。 見惚れるほどの、綺麗な顔のまま、弘人は微笑み続けている。 仕事が終わると、こうして弘人の部屋にやってきては、今日の出来事を話してやる。隣同士に住んでいた時からそれは変わらない。ただ場所が、マンションの一室から病室に替わっただけだ。 だから俺は前と同じように毎日弘人の元を訪ね、こうして一緒に過ごしている。 今日あったこと、失敗したこと、楽しかったこと、思ったこと考えたこと。全てを話している。 だって弘人には聞こえている。ちゃんと聞こえているのだ。 俺には分かる。 「ああ、そうだ。近所で工事してたやつ、あれ、コンビニだったよ。来月オープンだって」 駅から続く坂道の、スーパーよりも先、俺たちの住まいに近い場所に、もうすぐ出来るらしい。 「これでビールとか、重いものを持って坂道を上らなくて済むね」 俺の声に、弘人が応えたように見えた。 『それは助かるね』 そう言って、笑ったように見えた。 「もうすぐだ」 もうすぐ目覚める。 俺は分かっている。 弘人がもうすぐ目覚め、はっきりと俺の顔を見つめ、おはようと言ってくれることを。 待たせたねと、笑って謝ってくれることを。 俺を置いて行かないと、約束をした。 弘人はしっかりと俺の指に指を絡め、約束をした。弘人はそれを絶対に破らない。 二度と、俺を置き去りにしないと、約束をしたのだ。 変化は少しずつだから、俺以外の誰も気付かない。だけど、俺ははっきりと確信している。 長い映画のフィルムの一コマ一コマのように、それ一枚ずつでは決して気付かない変化を、俺は知っている。 濡らした布で、乾いた唇を湿らせてやると、弘人の喉がこくりと動いた。喉が渇いていたらしい。 水分も栄養補給も点滴で補っているが、身体が乾きを訴えている。湿らした布で、ゆっくりと何度も弘人の乾きを癒してやる。 「もうすぐ追いつくよ」 なあ、弘人。 月明かりに照らされた、弘人の頬を撫でながら、語り続ける。 この十月で、俺はあの頃の弘人と同い年になる。 眠ったまま、時を止めてしまった弘人に、もうすぐ追いつく。 五年の間、いろいろなことがあった。 俺は大学を卒業し、就職をした。 慣れない仕事を歯を食いしばってこなし、時々は弘人に愚痴を聞いてもらいながら、なんとか頑張ってきた。そうやって今日のように、そこそこ責任のある仕事を任されるまでになっている。 「亜子、もうすぐ生まれるってよ」 亜子も結婚した。ここへも一度来たことがある。眠っている弘人に、涙声で「ハル君が待ってるよ」と言ってくれた。 弘人にはそれもきっと聞こえている。 お袋も時々来てくれる。 弘人の世話を焼く俺の隣で、時々何か言いたげな複雑な表情を見せるが、今はもう何も言わない。 弘人が気にする事も、苦労することも、なにもないんだよ。 周りが少しずつ変っていく中で、俺の気持ちだけは、あの頃と何も変わりがない。 だから安心していいんだ。 俺だって弘人を守ってやれるぐらいには、強くなったんだから。 社会人になって、大人になったんだってところを見てもらうのが楽しみだ。 「料理も出来るようになったんだよ」 弘人に料理の腕を自慢する。俺の料理を口にして、驚く顔が見えるようだ。 一緒に飯を作り、一緒に食べ、一緒に片付けて、一緒に風呂に入り、一緒に寝て、そうして一緒に朝を迎えような、弘人。 もう一度弘人の腕をとり、綺麗に切りそろえられた爪を含み、歯を立てる。 カリリ。 甘噛みし、掌に唇を滑らせ、ふっくらとした掌もそっと噛み、弘人の表情を覗く。 お前は今、どんな夢を見ているんだろう。 その夢を、俺はいつ見ることになるんだろう。 手を握ったまま、そっとかがみ、ふくよかに笑みを浮かべている口元にもキスを落とした。 ――そこ、噛んで。 胸に響く、弘人の甘い懇願に応え、顎の先を噛んでやる。 「今度は俺が甘やかしてやる番だからな」 そして春になったら、今度こそ一緒に桜を観に行こう。 「駅向こうよりいい場所を見つけたんだ。ほら、マンションの裏の方にある路地の先に『桜公園』ってのがあってさ」 小さな公園は、夜には人気がなくなって静かだ。 賑やかな祭りもいいけど、二人でカップ酒でも飲みながら、夜桜を眺めるのもいいと思う。 「新しく出来たコンビニで弁当買って、カップ酒買って、二人で花見しような」 月明かりに照らされた弘人が、嬉しそうに微笑んだ。 ほら、やっぱり聞こえている。 「弘人」 お前は憶えているか? 笑っている弘人に問いかける。 今お前を照らしているのよりも、もっと大きな月を、二人で見たことがあるよな。 しっかりと憶えている。 思い出したんだよ、弘人。俺は思い出した。 二人で月明かりに照らされた記憶。 二人で手を繋いで坂道を上った記憶。 二人で桜を眺め、語り合った記憶。 夢のように儚くて、だけど確実に二人で体現し、二人で過ごした、あの日たち。 あれは俺の、俺たちの――未来の記憶だ。 だから弘人はもうすぐ目覚める。 俺は知っている。 目覚めた弘人とあの坂道を上り、途中で寄ったコンビニで酒を買い、小さな公園で桜を見上げる。 天蓋のように広がった桜の樹の下で、俺が言った言葉を憶えている。 弘人の返事も憶えている。 桜の天蓋の狭間から零れる月明かりに照らされながら、弘人が笑って、俺にもう一度、あの約束をしてくれるのだ。 |
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