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あの日たち
24

 電車から降りると、熱気が身体を包んできた。
 大きな荷物をよいしょと肩にかけ直しホームを降りる。
 盆休み。
 親にやいのやいの言われて、仕方なく帰省していた。
 本当は一時だって離れたくなくて、親だけの説得なら簡単に無視していた俺だけど、就職したらそれこそ時間が思うように取れないよと、弘人に言われ、仕方なく親孝行のまねごとをしてきた帰りだった。
 早く弘人のいるあの部屋に帰りたい。
 もっとゆっくりしていけと、不満を漏らす親を振り切って帰って来た。
 親には少し悪いと思うが、自分の気持ちは抑えられない。
 とにかく弘人の顔が早く見たくて駅からの坂道を急いでいる。
 結局今年の桜は見ることが出来なかった。
 弘人と結ばれた夜からずっと、二人でいる時は俺が弘人を離さなかったからだ。
 花見もいい。外で飯を食べるのもいい。だけど、今はとにかく二人きりでいたいという我が儘で、ずっと部屋でいちゃいちゃしていた。
 弘人は相変わらず、半ば諦めたような素振りで、俺の我が儘をきいてくれている。
 就職も決まった。
 あれから内定の通知がもう一つきて、迷った末、俺は初めに受かった所に決めた。
 やりがいだとか、待遇だとか、色々考えてはみたものの、最終的にここから通いやすいいという理由が一番だったことは、弘人には言わないでいる。
 就職が決まった俺に、親は安心し、一年遅れたけど、それでも元気に、無事に、生活していることに心底感謝しているようだった。
 お隣さんとも上手くやっているし、可愛がってもらっていると、当たり障りのないことを言っておいた。
 お袋は自分自身が弘人の親友ぐらいのつもりでいるらしく、これからあんたも社会人になるんだから、いつまでも甘えてないで、手助けしてやるんだよと叱責された。もちろんそのつもりだ。
 年の差はどうやったって縮まらないけど、せめて弘人が安心して頼れるくらいには、俺だってなりたかった。
 片想いだと思い込んでいた頃は、傍にいられればいいからと、とにかく懐いた振りをして甘えていた。迷子の子どものように大人の服の裾を摘んだまま、しょうがないなと苦笑されても、その手を離すまいと懸命になっていた。
 だけど弘人を手に入れた今は違う。
 男として、弘人に甘えてもらえるようになりたかった。何とかして追いつきたいのだ。
 そんな俺の気持ちも弘人には丸分りのようで、それが少しだけ悔しい。
 でもいつかそんな日がくればいいと、焦らず頑張るつもりだ。
 時間はこれからだっていくらでもあるのだから。
 肩に掛けてある荷物をもう一度担ぎ直して、緩やかな坂道を上っていく。
 目の前には大きな月が浮かんでいた。
 いつか弘人とここを歩いたときは朧月だった。今隣にいたら、ほら、こんなに大きい月が浮かんでいるよと、弘人を喜ばせてあげられるのにと残念に思いながら、坂道を歩いていた。
 こっちで買えるというのに、また山のように土産を持たされ、俺の荷物はパンパンになっている。煮豚が美味しかったと言われた記憶がお袋には強くインプットされていたらしく、保冷容器まで準備され、持たされた。
 スポーツバックを肩に担ぎ、土産の入った紙袋を両手にぶら下げて、坂道を登る。
 途中まで歩いて、こんなに荷物があるならタクシー使えばよかったなと後悔したが、ここまで来ちまったから仕方がないと、我慢して歩く。
 食材も重いが、もう一つ持たされたグラスの入った化粧箱が嵩張って、割れやしないかと気を遣って歩くから、面倒だった。
 料理を請け負ってくれる弘人に代わって、後片付けはもっぱら俺の役目なんだけど、それもあんまり得意とは言えず、かなりの食器を割っていた。
 引き出物かなにかの、六客あったグラスセットも全滅した。
 そんなことを話の種に何の気なく言った俺に、お袋が激昂した。
「あんた! そんな人様の家のものを壊しまくってヘラヘラ笑って! 馬鹿じゃないのっ」
 と叱られ、わざわざデパートに出向いて買ってきたグラスセットも持たされたのだ。
 もっとも、最後の二客を全滅させたのは俺ではなく弘人だったが。
 意外とそそっかしい弘人は、俺が田舎に出かける朝も、部屋の敷居にけつまずいていたっけ。
 蝉がギャワギャワと鳴いている。
 とっくに陽は落ちているのに、最近の蝉は夜も鳴き続けるのかと、鬱陶しく思いながら、大きな月に向って坂道を登っていた。
 もうすぐ二人の部屋に着く。
 弘人はもう帰っているだろうか。
 それとも今頃まだ電車に乗っているだろうか。
 早く逢いたい。
 身体が汗でベトベトだ。
 シャワーを浴びたい。ビールが飲みたい。あの俺用のソファで寛いで、それから久しぶりの弘人を抱き締めたい。
 坂道の途中にあるスーパーから出てきた人影を認め、思わず「あっ」と声が上がる。
 弘人だ。
 手にスーパーの袋をぶら下げている。白い袋に透けて見えるのは、ビールだ。
「弘人!」
 俺の声に振り向いた弘人は、俺の姿に気づき、ゆっくりと笑いながら手を挙げた。
 それはまるでスローモーションのような光景だった。
 笑ったまま、手を挙げたまま、弘人がその場にゆっくりと――崩れ落ちた。
 糸の切れた人形のように、積み木が崩れるように、熟した果実が落ちるように、
 ふっつりと
 ゴトリと
 クチャリと
 潰れるように、その場に倒れた。
「弘人っ!」
 その後のことはよく覚えていない。
 どうやって弘人の側まで行ったのか、走った記憶さえも飛んでいた。
「弘人っ! 弘人ぉっ! 弘人! 弘人っ、ひろとぉっ!」
 気が付くと、俺は道にベッタリと座り込んで、弘人の名前を叫び続けていた。持っていたはずの荷物もどこにもない。放り投げてしまったんだろう。だけどそんなことはどうでもよかった。
 ただただ狂ったように泣き叫び、弘人の名前を呼んでいた。
 抱き起こそうとする肩を強く掴まれ、「動かさないほうがいい」と、誰かが鋭い声で言うのが聞こえた。
「頭を打っている」
 道路に赤い筋が流れている。
 潰れたトマトの汁のようだ。
 月に照らされた弘人の顔が、紙のように白く、それなのにその唇は笑みの形を作っている。
 触ることも出来ないで、その場に膝をついたまま、俺は馬鹿のように弘人の名前を呼び続けるしかなかった。



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