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遠景
1


 シンとした朝。部屋はまだ薄暗い。身体を横たえたまま、ひとつ息をして、耳を澄ます。
 音が聞こえてきた。
 水の流れる音。それからキュ、と蛇口を閉める音。静かな足音。それが近づいてくる。
 唇に温かいものが触れた。
「おはよう」
 僕から離れた唇が言う。薄暗がりの中、白い歯が覗いている。額に掛かった髪を取り除くようにそっと撫で、掌が頬に当たる。
「おはよう」
 僕の挨拶に応えるようにもう一度キスが降りてきて、それを迎えた。指が頬を滑り、頤に辿り着く。猫の子を擽るような仕草で顎を撫で、僕の顔を覗いていた顔が笑った。
 ベッドに腰掛けていた眞治が立ち上がり、カーテンを開けに行く。シャ、という軽い音のあとに光が射し、朝がやってきた。
 戻ってきた眞治が僕の手を取り、ゆっくりと揉んでいく。恋人繋ぎのように指を搦めながら手首を倒される。僕が寝ているあいだ、毎日やっていたマッサージ。眞治が眠っているあいだ、僕も彼に同じことをしていたことを思い出す。
 丁寧に揉みほぐし、手を繋いだまま手首を回している。ゆっくりと、やさしく、長い時間を掛けて。
 やがてその手に引かれ、身体を起こした。眞治が僕を見つめている。白い歯を見せて、とても嬉しそうに。
「ご飯食べられる?」
 僕がうん、と頷くと、彼は台所に戻っていった。火を付ける音と、カチャカチャと鍋を擦るレードルの音。部屋の温度が微かに上がり、コンソメの匂いが漂ってきた。
「今日はねえ、ミネステローネ。トマトたっぷり」
 僕が寝ていたあいだ、彼は料理の腕を上げた。今では僕なんかよりも数段料理上手になっていて、毎日僕を驚かせる。
 ベッドから降り、カウチソファにいる僕に大きなカップが差し出される。受け取ったカップを、僕の手ごと眞治の手が包んでいる。僕の足元に膝をつき、口元に運ぶカップを、一緒になってふぅふぅと吹いている。小さな子どもに食べさせるお母さんのような仕草に笑いながら、眞治の腕に促されてカップに口を付ける。ほの温かい酸味が口内に入ってきた。
「……おいしい?」
 下から覗き込んで聞いてくる顔に「うん」と頷くと、眞治が笑った。
 スプーンも渡されて、小さく刻まれた野菜を食べる僕を満足そうに眺め、眞治が立ち上がった。会社に出掛ける彼は、すでにスーツを着ている。白いワイシャツに薄青のネクタイ。僕がこの前プレゼントしたものだ。とても似合っている。だけど……。
「毎日同じネクタイじゃ駄目だろう」
「だって気に入ってるんだ」
 僕の言葉に眞治がそう反論して、こっちを向いた。無邪気な顔に苦笑して、「じゃあ、今度また買ってあげる」と言うと、「本当?」と顔を輝かせた。 


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