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遠景
3(完)


 シャ、と軽い音がして、朝日が部屋を照らす。
「おはよう」
 振り向いた眞治が笑っている。明るい日差しに目を細めながら、僕も彼と同じ挨拶の言葉を発した。
「よく寝てたな」
「うん。ごめん」
 僕が謝ると、眞治は笑って僕にキスをくれた。
「約束の日だ」
 そう言って、力強く僕の手を引いて、抱き起こしてきた。
 彼とはたくさんの約束をしている。ひとつ、ひとつ、それを果たしていく。
「今日は?」
 今日はどこに連れて行ってくれるの? と、眞治を見つめる僕を、彼も見つめ返してきた。あれから随分の日々が過ぎたようで、目の前にいる眞治は、すっかり大人になって、ときどきは僕よりも年上のような表情を見せ、僕を驚かせ、笑わせる。
「一番の約束。桜を観に行く日だろ?」
 そう言って笑う顔は相変わらず悪戯っ子のようで、この笑顔だけは変わらない。
「ああ、そうだったね」
 手を引かれて立ち上がり、思い出したと、僕も笑顔を返した。
「お握りぐらいは作っていこうか。桜ご飯のおにぎり握ってさ」
 今ではすっかり僕よりも料理の腕を上げた眞治が張り切っている。
「弘人も作るんだぞ。手伝えよ」
 まるで行楽に出掛ける父親のように、僕に命令してくる様子が可笑しくて、楽しい。
「つまみと飲み物は途中のコンビニでいいよな。新しくできたとこ」
「新しくまたできたの? コンビニ」
 僕がそう聞くと、眞治は「ああ、そうか」と白い歯を見せて笑った。
「勘違いした。そう、いつも行くコンビニ。そこでビールを買おう。カップ酒も?」
「そうね。両方買おう」
 飲む気満々の僕を眞治が笑って見つめている。
 二人で狭い台所に立ち、花見の準備をしていく。梅干しと桜の塩漬けで炊きあげたピンク色のご飯は、彼のお母さんが作り方を教えてくれた。三角に握ったおにぎりの上に、飾りの桜の蕾を乗せ、ラップにくるむ。
 お握りを袋に入れて外へ出る。通い慣れた坂道を、手を繋いで歩く。ゆっくりと歩く僕に合わせ、眞治もゆっくりと歩を進める。
 外はまだほの明るく、月はまだ出ていない。
 だけどもうすぐ顔を出すだろうことを、僕も眞治も知っている。
 坂道の途中にあるコンビニへと入っていった。眞治はカゴとお握りの入った袋を持ち、もう片方の手はやはり僕の手を握っている。
 僕に飲み物を選ばせ、それをカゴに入れているとき、店の奥で小さな子どもの声がした。お菓子を欲しがるその子に、母親だろう女性が静かに「あとでね」と諫めている。
「これは帰りに買ってあげるから」
 どうやらひとつと決められた数が守れなくて、駄々を捏ねているようだった。
「お見舞いに行くんだからね。遊びに行くんじゃないんだよ」
「いいじゃん。買ってやれば。家で食べればいいよ」
「駄目なの。いつもお菓子はひとつの約束なの。約束を守れたら、帰りのご褒美にもうひとつっていうお約束なの」
 母親の厳しい声がして、相手の男性が笑いながら「へいへい」と返事をしている声が聞こえた。
「それにしても、最近の駄菓子ってさ、すげえ健康志向なのな。俺らの子どもの頃ってさ、こういうのってもっとドぎつい色してたもんだけど」
「そりゃあそうよ」
「『十二穀入りビスケット』とか……食いたくねえな。『オーガニックうまい棒』か……」
 ブツブツと文句を言っている声を聞きながら、僕と眞治とで目を合わせ、笑い合った。
「駄菓子は添加物満載の自然じゃない色合いのほうが、食べたくなるよな」
 眞治がそっと僕に耳打ちをして、僕は笑いを堪えて肩を竦めた。
 お母さん業って大変だなあと、一生懸命子どもを宥めている声を聞きながら、ああ、大きくなったんだなとも思う。この次に会うときにはきっと、もっと大きくなっているんだろう。
 飲み物の入った袋を眞治が持ち、総菜とお握りを僕が引き受けて、コンビニを出た。もうかたほうはやはりお互いの手を握っている。
 坂道の向こうに月が上がっていた。
 出迎えるような月に向かって、ゆっくりと二人で歩いていく。
 眞治が見つけた「桜公園」は、夜になると人の気配が消え、僕たちのような二人には打ってつけの穴場のデートスポットだ。
 歩いていくうちに、月の下にあった夕焼け色も薄くなり、すっかり夜になる。
 手を繋いだまま、高く遠くなっていく月を追いかけるようにして、坂道を上った。
「……着いたら」
 横にいる人が月を見上げたまま小さく言った。
「弘人にプロポーズするんだ」
 横顔がそう言って、僕は笑う。
 プロポーズするんだという言葉が、もうプロポーズじゃないかと、可笑しくて笑う。
「楽しみだね」
 僕の声に横顔がこちらを向いた。
 ああ、楽しみだ。
 桜は満開。月は明るい。
 天蓋のような桜の樹の下で、眞治が僕に言う。
 その言葉を僕は知っている。
 そしてきっと、彼も僕の答えを知っている。
 一番の約束のときがもうすぐやってくる。
 僕はそれが楽しみでたまらないのだ。



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