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明るいほうへ


 金曜日に飲むビールは格別に旨い。
 月曜から頑張って仕事をこなし、さあ明日は休みだと思うと、自然と口元が緩む。
 実際この五日間、それほど身を粉にして働いたわけでもないし、飲まなきゃやっていられないほどのストレスも重責も担っているわけではないが、それでもなんとなく体が解れるというか、ああ、この一週間俺も頑張った、なんて自分にご褒美をあげたくなるものだ。
 そろそろビアガーデンも待ち遠しい、初夏の風に誘われて、後輩二人を連れて入った居酒屋で、とりあえずのビールを一気にあおったその時、後輩の一人が初夏の風も、弛みかけた頭のネジもぶっ飛ぶような一言を言ってのけた。
「野坂さんがホモだって噂、本当ですか?」
「ボヘッ!」
 間抜けな音と共に逆流したビールが鼻を伝い、溺れかけて海水を思い切り吸い込んだ時のような衝撃が俺を襲った。
 ゲホゲホと咳き込みながら、体裁を取り繕う余裕もなく、その辺にあったおしぼりを引っ掴み、ビールだらけになった顔を拭く。
 やっと息が出来るようになったとほっとして、真正面に座っている後輩の顔を見る。ビールが目にしみて涙が滲んでいたからその表情はよくわからなかったが、その隣にいたもう一人の後輩が、口を開けたまま横を向いていて、その口からもだらだらと液体が流れ出ているのが見て取れた。
 ひとつ息をついて、口からビールを垂れ流している秋元君に別のおしぼりを差し出してやる。「スーツがシミになるよ」とあくまでも平静を装った声を出した。はっと、我に返った秋元君は、自分が言ったわけでもない発言に対しての謝罪を口にした。
「す、すみません。失礼なことを言って。おまっ、お前も急に何言い出すんだよっ」
「なんで秋元が慌てるんだよ。俺は噂が本当かどうかただ気になっただけだ。もし噂が噂だけで野坂さんがホモじゃなかったら、それは大変失礼な話だろ?」
 ねえ。と人懐こい笑顔で遠藤久裕君がこちらを向いた。
「……あー、噂話はどうか本人のいないところでやってくれないかな」
「す、すみません」
 秋元君がやっぱり謝った。
「だから、なんでお前が謝るんだよ。俺、面白がって言ってるんじゃなくて、ホモじゃねえのにホモ疑惑かけられてるんだったら野坂さん可哀相だし」
 いや、可哀相がってもらわなくても結構ですけど。噴いてしまって中身が半分ほどになってしまったジョッキを、今度は用心しながら口に付けた。
「もし、本当にそうなんだったら、いろいろ聞きたいし。俺、周りにホモいないんですよ。いやいたのかもしれないけど、そうだって言う奴いなかったし」
 ええと? それは面白がっているのとは違うのかな? 遠藤君?
「で、どうなんです?」
 ちょっと、と慌てて肩を押さえる秋元君にお構いなく、遠藤君がずいっと身を乗り出してきた。
 俺は眼を逸らさずに遠藤君を見つめたままゆっくり、はっきり言ってやった。
「違います」
 乗り出していた分の体を大きく仰け反らして、遠藤君が椅子に沈んだ。
「なあんだ。そうなんですかぁ」
 そりゃそうだ。君の周りにいたかもしれない隠れホモ君達だって、きっとそう答えるだろう。
 はい、そうです。私、野坂充はホモです。それが何か? と素直に告白できるほど、俺も開き直ってはいないのだ。



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