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明るいほうへ
32

 土曜日は一日中うつぶせのまま過ごした。
「うー」
「だからー、知らないよって言ったんですよ」
 それにしたって……ものには限度というものがあるじゃないか。
 結局明け方近くまで遠藤君に責められた。飯も食わずに、俺だけ喰われた感がある。買ってきたコンドームの箱が空になるんじゃないかという勢いだった。煽った俺も悪かったけれど。
 興奮した遠藤君に付けられた『俺のもの印』は体中に散らばっていて、俺の体はダルメシアンみたいになっている。しばらくは車に気をつけようと思った。事故に遭って病院に運ばれた日には、治療を受ける前に心臓発作であの世に逝きかねない。恥ずか死にだ。
 遠藤君は昨夜の運動などものともせずに、甲斐甲斐しく俺の面倒を見てくれている。
 体を拭いてくれて、買い物に行ってくれて、飯も用意してくれた。やっと体を起して遠藤君の作ってくれたチャーハンを食べた。
「美味しいですか?」と無邪気に訊ねて笑う顔を見ながら、脳裏には『絶倫』という二文字が浮かんだ。
 疲れ果てて、絡み合いながら二人して泥のように眠り、眼が醒めたのは昼過ぎだった。
 隣で寝息を立てている遠藤君をやっぱり不思議な気持ちで眺めていた。
 なんでこうなったのかが未だにわからない。夢のようで、現実味がなくて、それでも刻まれた体の痛みは確かなもので……幸福と不安とが交錯する。
 手に入れた瞬間からすでに失う恐怖が訪れていた。
 目を覚ました遠藤君がにっこり笑って「おはよう」と眦にキスをしてくれて、ああ、今はまだ失っていないと安堵する。少しでも長くこの幸福が続きますようにと彼の腕の中で目を閉じた。
 日曜日になって、ようやく動くことができるようになった。
 二人で遠藤君の家の近くにある河川敷のグラウンドへ向かって歩いていた。遠藤君の教える野球チームの人に頼まれて、ボランティアで少年野球の審判をすることになっているそうだ。
「教えてるって言っても、ホントに基礎的なことで。ボールの投げ方とか、素振りの仕方とか」
 小学校でどこかのチームが練習しているのは前から知っていた。帰り道にある空き地で毎日素振りをする少年がいることもずっと知っていたという。
「あんまり下手くそなんで、思いあまって声を掛けたんですよ。半年ぐらい経ってるのに、全然上手くならなくて」
 苦笑しながら遠藤がその時のことを教えてくれた。そして半年たった今になって、どうして声をかける気になったのかも。
「いつかの野坂さんの言ってたこと、ずっと考えてたんですよ。自分に何が出来るのかって。それまで俺、野球辞めたことを少し引きずってて、怪我さえなけりゃなあなんて思ってたところがあって」
 知ってるよね? と、こちらを覗かれた。
 うん。知っている。遠藤君が強くて、頑張ってて、野球が大好きで、つらかったことを知っている。だから、俺も自分に何が出来るのかと考え始めたのだ。
「下手くそな素振り見てて、あいつと俺のやってた野球は違うって思ってたんですよ。俺は違ったんだぞって。ほら、俺、うぬぼれ強いから」
 実際そうなのだろうと思う。遠藤君の通った道は、俺たちとは違う選ばれた道だった。
「でも、だからなんなんだろうって、野坂さんの話聞いて、何にも違わないんじゃないかって。こう、眼から鱗って感じで」
 なんかうまく言えませんけどね、とはにかんだように遠藤君は笑った。
 俺の言葉をきちんと受け取ってくれていたのだと嬉しく思う。
「俺も、遠藤君に会えたからそんな風に考えるようになった。遠藤君のお陰だよ」
「本当?」
 ぱっと笑顔が向けられた。大好きな笑顔。
「うん」
「そっかー。なんか嬉しいですね」
 晴れやかに笑う隣に並んで二人、道を歩く。
 空はスコンと晴れていて、二つの影法師が道に映っている。
 夏に見た時よりも少し薄いそれは、前よりも近くに寄り添っていて、一つにくっついている。影の主たちの距離もあのときよりもずっと近い。ふふっ、と思わず笑みが零れた。
「なに? なにか思い出し笑い?」
 俺が楽しそうなので、遠藤君もなんだか嬉しそうに聞いてきた。
「ん? うん。これ」
 地面を指さした。
「なんか、仲よさそうだなって思って。恋人同士みたいだ」
「みたいだ……って、実際恋人同士なんだから、そりゃあ仲いいでしょう」
「えっ?」
 と、俺が吃驚したから
「ええっ?」
 と、遠藤君がもっと吃驚した。
「こ、恋人……って、え?」
「違うの?」
「あ、そうなの?」
「そうなの……って……」
 本物ががっくりと首を落として、影の首がなくなってしまった。
「俺だけでした? 舞い上がってたの」
「違うっ! そりゃ、俺も舞い上がってるけど、でも、遠藤君はほら、ノーマルだし、俺と違うし」
「何にも違いませんって。それとも、あれ? 野坂さんは恋人じゃない人とああいうことをするんですか?」
 悪戯っぽく言われて覗いてきた眼が『ああいうこと』や『こんなこと』と思い出させて、くらくらと眩暈を起こした。
「……しません」
 あははと笑って、影法師の首が戻った。
「本当、困った人だなあ」
 こまった、こまったと繰り返し言われて、全然困ってないじゃないかと地面に映る大きい方を睨んだ。じっと見ていたら、不意に影が縮んで背が低くなったなと不思議に思ったとたんに本物にキスをされた。
「うぎゃっ」
「『うぎゃ』はないでしょう、『うぎゃ』は。下ばっかり向いてないで、ほら、ちゃんとこっち向いて」
 見上げた瞳がやさしげに瞬いていて、ここで「……キス」と言われやしないかとドギマギした。
 だって、遠藤君にそんな風に言われたら、絶対にいやだって言えないから。
 遠くから子供たちの歓声が聞こえてきた。試合前の練習が始まっているみたいだ。
 ボールを打つ金属音が澄んだ空に響く。
「少し急ぎましょう」と言われて足を踏み出す。
 明るい方へ、明るい方へと連れて行かれる。
 いつのまにか影は後ろに回り、二人のあとをついてきていた。



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