INDEX
仰げば蒼し
1
 遠藤君が悩んでいる。
 濡れた髪をタオルで拭きながら、悩んでいる遠藤君の前を通り過ぎて、冷蔵庫からビールを取り出す。
 先にどうぞと言われて素直に風呂を借りて、戻ってきたところだ。
 遠藤君は俺が風呂に入る前と変わらない姿勢のままノートを見つめ続けている。
 珍しいなと思った。なにかを考え続ける遠藤君は珍しい。
 だいたい、考えるよりも先に体が動くタイプだ。
 いつもなら、ものの五分と経たないうちに「やーめた」と言って、俺にちょっかいをかけてくるのに、今日はそれがない。
 ちょっかいの度合いがちょっとしゃれにならない場合が多くて困るのだが、それがないとなると今度は寂しいと思うのだから始末が悪い。
「ビール飲む?」
「ん? あー、飲む」
 缶ビールを二つ取り出して傍に寄る。「なに、それ?」と後ろから覗きこむ振りをしながら体を密着させる。
「これ? 今度の試合のメンバー表」
「ふうん。遠藤君が考えるの?」
 会話をしながらその太い首に巻き付いてみる。
「そう。監督が全部俺に丸投げしてきた」
「ふうん。大変だね」
 まだノートから目を離さない。なんだか意地でもこっちに注意を向けたくなってきた。 
 完全に負ぶさった格好になりながら、遠藤君の耳たぶに吸いつく。
 敵も初めは対抗するみたいに素知らぬふりをしていたが、そのうち笑いながら俺の腕を掴んで引っ張られた。
 いつものように遠藤君の膝の中へと迎え入れられる。喉元に顔を埋めて、くんくんと石鹸の匂いを嗅がれた。
「俺がちょっかい出すと、怒って駄目だって言うくせに」
「だって、家へ来いって言ったの、そっちだろう? わざわざ来たのにお客を放っておくから」
 そうなのだ。今日は仕事帰りに遠藤君が人と会うと言うから俺は一人で自分の部屋に帰ったのに、話が済んだからと連絡がきて呼ばれたのだ。
 それなら俺の部屋に来てくれればいいのに、遠藤君は自分の家に呼びたがる。それも魂胆があってのことだ。
「だからいちいち来るの、面倒臭いでしょう。このままこっちに住めばいいのに」
 ほら始まった。
「合鍵も渡してあるんだから、こっちで待っててって言ったんですよ」
 部屋に初めて招待された時にすぐに鍵を渡された。でも俺はまだ一度も使ったことがない。
「まったく頑ななんだから」
 だって最後の砦というか、逃げ道は作っておきたいじゃないか。
 俺のそんな気持ちをわかっているから、それ以上の口論にはならない。
 遠藤君も半ばあきらめている様子で「気長にその気になるのを待ちます」と言ってくれている。
 自分でもずるいと思っているけれど、時々こうやって「一緒に暮らそう」とプロポーズみたいに言ってもらえるのが心地よい。
 今ぐらいの距離感がいいと思っている。なにもかもべったりと密着してしまうのは、危険だ。
 期待していたとおりの遠藤君の受け答えに満足して、改めて彼の考え事の話に戻る。
「遠藤君にしては珍しく悩んでるみたいだけど。そんなに難しいの? メンバー決めるのって」
「難しいですよ。問題はそれだけじゃないしね。
 遠藤君の指導する少年野球チームの弱小ファイターズ――『弱小』は遠藤君が勝手に頭につけている――はここ最近、俄かに活気づいている。
 もともと小学校の仲良し達がお遊びで始めたクラブだったが、遠藤君が加わって、ほんの少し本格的な野球ができるようになった。 
 地域の野球クラブにお願いして練習試合の真似ごとのようなこともさせてもらえるようになり、子供たちも親達も試合の面白さに夢中になってしまった。
 十人前後の人数だったのが、だんだんと増えていき、今は三十人以上いるという。そうなると、正式に少年野球連盟に加盟して活動したらどうだろうかと誰かが言い出したのだ。

novellist