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遠藤の苦悩


 ――なにをもってして、俺のことをノーマルだと決めてかかっているのか。
 恋人の後ろ姿をぼんやりと眺めながら遠藤久裕は考えていた。
 日曜の朝。開け放たれた窓からは五月の爽やかな風が吹きこんで、薄いカーテンを揺らしている。風に乗ってくるのか、かなり遠くにあるはずの線路の上を、電車がる音が微かに聞こえてくる。その微かな音も、あと少し時間が経てば、起き始めた周りの生活音にかき消されていくだろう。
 おはようと起きだした子供の立てるパタパタという足音。仄かな油の匂いと共にフライパンに落とされる卵のジュッという音。洗濯機の回るゴウンゴウンと唸る振動。
 人の記憶というものは、匂いと、音から出来ているのではないかと思うことがある。
 一人暮らしでは気づくことのない、自分以外の誰かが自分のためにたてる音と匂いに、ふと、そんなことを感じて、こういうことが幸福というものなのだろうかと、柄にもなく哲学的なことを思ってみたりしちゃったりなんかする、遠藤だった。 自分のためにコーヒーを入れてくれている背中が動いている。やがて、コポコポとお湯の沸く音と一緒にコーヒーの香ばしい香りが部屋中に広がってきた。
 充がマグカップを二つ持って台所から戻ってきた。ガラスのテーブルの上に一つ置くと、もう一つを持ったまま向い側に座った。ちらっとこちらを覗いて、両手で包んだカップを口元へ持っていく。その様子で、あ、隣に来たいと思っているなとわかる。
 これは遠藤が失敗したことの一つといえる。恋人はとにかく恥ずかしがり屋だ。最初に遠藤の部屋に連れて来た時に、歓迎の意味を込めてお客さま扱いをしてしまい、この位置関係に置いて座らせたのが刷り込まれてしまった。一番初めに自分の隣が定位置だと教え込むべきだったと悔やんだが、それを修正するのには少し時間がかかるのだ。
 そのくせ一度ここは大丈夫なのだと覚えてしまえば、膝の上でも躊躇なく乗ってくる。  充と初めて恋人同士の関係に至った夜もそうだった。純粋で真っ白な人なのだとその時に理解した。
「こっち、おいで」
 誘いかけたら忽ち、ふにゃん、と笑って寄ってきた。性的なものがなくても、体の何処かが触れているのが好きらしい。猫みたいな人だ。
 充が一息ついて、コーヒーを置くのを待つ。キスをするタイミングを見計らう。
 この時も注意が必要だ。突然動くと吃驚して持っているコーヒーを放り投げかねない。
 いつも何となく緊張してドキドキ、ビクビクしているのが堪らなく可愛い。
 いつまでもカップを放さないから我慢ができなくなって、そっと充の持っているカップ取り上げてテーブルに置いた。
 それでもまだ遠藤の真意がわからずに、キョトンとして置かれたコーヒーを眺めている。
「あのさ」
「なに?」
 チュッと素早く唇に触れる。
「ぎゃっ」
 思わず噴いた。相変わらず面白い。
「『ぎゃ』はないでしょう、『ぎゃ』は」
「だ、だって、いきなり……そりゃ、ビックリするから」
「そろそろ慣れてもらいたいんですけどね」
「慣れないよ。遠藤君、いつも急だから」
 付き合いだして五か月が経とうとしているのにまだこれだ。可愛いったらありゃしない。
 怖くないからおいでおいでと手招きして、『大丈夫? 噛まない? 噛まない?』とびくびくしながら近づいてきて、やっと少し安心したところでガブッとやられて『ギャー』となる。野生のウサギみたいだ。



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