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遠藤の苦悩
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 そろそろ名字ではなく名前を呼んでもらいたいなとは思っているが、たぶんこれが一番難問だろう。それでも充の呼ぶ『遠藤君』には特別な響きがあるからまあ、しばらくはそれでもいいかと思い直す。
 甘い時間を過ごしている時の充の自分を呼ぶ声がとても好きだ。これほど蕩けるような声で苗字を呼ばれた記憶はない。
 出し惜しみも知らず、駆け引きをすることなど考えにも及ばないとういう態(てい)でひたすらに愛情を注ぎ、柔らかく受け入れようとする無垢な恋人が可愛くて、可愛くて時々おかしくなりそうになる。
 めちゃめちゃに壊しそうになるのだ。そんな自分をも喜んで充は迎え入れようとする。
 その奥に悲愴とも呼べる覚悟を彼が抱いていることを遠藤は知っている。
 朝目覚めるとき、遠藤はほんの少しだけ充よりも早く目が覚める。自分の腕の中で眠っている充を見つけて微笑むと、充がそれに気が付いたように眼を開ける。もしかしたら、自分が起きてくるのを待っているのかもしれない。
 そして、遠藤の眼の奥にある何かを探すようにじっと覗くのだ。
 遠藤が「おはよう」と額やこめかみに口づけをすると、やっと微笑む。今日も魔法がとけていなかったと安心するように。
「遠藤君はもともとノーマルだから、いつか正気に戻って去っていく」と思い込んでいるようだ
 それがよくわからない。もともと自分がノンケなら、こんなふうにはなっていないと思うのだが、頑なな恋人は信じて疑わない。
 だいだい、自分がホモなのか、ノンケなのか、あるいはバイと呼ぶものなのかわかっていないし、考えたこともないのだ。
 初体験は中一の時だった。同じ学校の先輩。好きなのかどうなのかもわからないうちに「どうぞ」と提供されて「じゃあ、いただきます」と受け取ってしまった。
 そのあともずっとそんな感じで、今思えばずいぶんな考えなしだとは思う。それでも「欲しいな」と思うよりも先に次々と差し出されて、何も考えずにここまで来てしまった。
 そんなことよりも自分にとっては大事な野球があって、それ以外は悩む余地もなかったし、恋愛に時間をとられること自体無駄だと思っていたのだ。
 野球を辞めても特に不自由ということはなかった。そのうちに気の合う女性と普通に恋愛をして、なんとなく結婚をして家庭というものを持つのだろうと漠然と考えていた。
 就職をして充と出会った。仕事の出来るこの上司が、何となく自分のことを可愛がってくれているのも感じていた。毎日が楽しかった。



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