INDEX
幸せの端数


  ゆらゆらと、頭上で光が揺らめいている。
 鮮やかな色を持つ小さな魚の群れが、音のない光の世界を横切った。それを追うように、大きな影が通り過ぎる。頭上を行くのはマンタだ。羽を広げるようにゆったりと、ガラスの向こう側へと移動していく。
 影が去るとまた光が射した。横に立つ陸の顔を柔らかく照らしている。刻々と濃淡を変える光を浴びながら、目の前を横切る魚影を、瞬きもせずに見つめていた。
 白い頬に水と光の揺らめきが映っている。魚影を追う振りをして、俊彦は隣に立つ陸の表情をそっと覗いた。
 綺麗な横顔だ。音のない、水底の世界に浸っているその姿に、少しだけ嫉妬を覚える。
 一人でいるな。俺を忘れないでくれ。
「陸」
 こっちの世界に戻っておいでよと、その頬に軽く触れた。ゆっくりとこちらへ顔を向け、陸が笑顔を作った。
「綺麗だね」
「ああ、綺麗だ」
 俊彦の口の動きを見た陸が頷き、また水槽に視線を戻した。膝を折り、陸の視線と同じ高さで、陸の見る世界を自分も覗こうと、光の波に目を凝らした。
 品川にある水族館。ずっと前、壊れてしまった――俊彦が壊してしまった陸と、ここへ来ようと約束していた。その場所に今日、二人で訪れたのだ。
 過去の記憶が悪意のある第三者によってねつ造され、歪められていたことを知らされた陸は、パニックを起こしていた。
 どうしようと震え、混乱と不安の中、俊彦しか頼る者がないようにして、自分の腕の中に凭れてきたあの日の光景を、俊彦は忘れない。
 あの瞬間、再生の取っ掛かりを得たのだと思う。
 自分のエゴで、俊彦は陸の世界から追い出された。取り返しのつかない罪を犯し、泣き叫びながら後悔し、だけど犯した罪も償えず、陸は一人の世界に閉じこもってしまった。すぐ近くに居ながら手を差し伸べることもできず、助けを求められることもなく、どうすることもできずに苦しんでいたあの日、再び陸を取り戻すきっかけを掴んだのだ。
 陸の恐怖を知り、陸の過去に自分が介入することで、再び陸の中に自分の居場所を得られるかもしれないと、僅かな光が見えた。
 そして今、陸は無理やり歪められていた過去を完全に修正し、乗り越え、俊彦の隣で笑っている。
 側にいてよかった。陸の世界から追い出されようとも、ずっと見守っていてよかった。例え偶然だったとしても、あの日、陸が伸ばした腕を取ったのは自分だ。
「マンタ、見えなくなっちゃったね」
「ああ。一周してまた戻ってくるだろう。待っていようか」
 大きな魚を見送っている陸にそう返事をしながら、早く戻ってこい、姿を見せて陸を喜ばせろと、ガラスの向こうの魚影に向かって念を送った。
 陸が俊彦の名を呼んでくれた日からずっと、二人で過ごしてきた。
 陸の部屋に通い、一緒に過ごし、見送り、そして帰りを待ち、また二人きりで過ごす。
 使うことを自分に禁じていた陸の部屋の合鍵は、あれから一度だけ使った。バイトから帰ってきて、先に部屋にいるからと言っていた陸が、いなかった。躊躇し、ドアの前で少し待ち、そして使った。
 ほんの数十分の違いで学校から帰ってきた陸は、部屋にいる俊彦を見て、笑ってくれたのだ。
 なくしてしまった大切なものを、ようやく取り戻した。
 もう二度と手放さない。どんなことがあっても。
 手放す時がくるとしたら、それはきっと、陸がこの世からいなくなってしまう時だ。その時になったら、自分も迷わず後を追うことだろう。
 陸がいないなら、生きていても仕方がない。親が悲しもうが、誰に迷惑を掛けようが、関係ない。
 陸だけだ。陸しかいらない。
「あ」と、陸が小さく声を発し、水槽を指した。さっきよりもサイズの大きいマンタがこちらへやってくる。後ろに小魚を引き連れて通り過ぎていくのを、陸が嬉しそうに見つめていた。
 頭上に広がる水槽のトンネルを歩いていく。聞こえない陸が何にも邪魔されずに楽しめるようにと、ぴったりと寄り添って俊彦も歩く。
 さっきから後ろを付いてくる高校生らしき集団が、ヒソヒソとこちらを窺っていることに気付いていた。水槽の魚よりも興味は別にあるようで、さっきから少し……うるさい。
 集団の一人が写真を撮る振りをして、陸と俊彦の前に回ってきた。視界に入ってきた人影に気づいた陸が、通路の端に移動しながら、その人物に笑いかけた。
「邪魔してごめんなさい」というように、撮影のための場所を空けている。
 笑顔を向けられたその子が陸の顔を覗き、パッと顔を輝かせた。後ろにいる集団に戻り、けたたましい声を上げている。
 陸の笑顔を見てはしゃいでいるのが忌々しいと思う。昔の陸ならきっと一瞥して冷たく無視しただろう。自分とは関係ないと興味も示さなかったかも知れない。そしてそのフォローを俊彦がしていたのだ。
 だけど今は違う。
 一旦俊彦の手から離れた陸は、自分で人との関わりを持つことを覚え、習得している。喜ぶべきことなのだろうけれど、気に入らない。気遣いをするのはいいとして、笑顔を向けることはないのではないかと思ってしまうのだ。
「陸、ほら、上に来た」
 頭上にやってきたマンタを指し、陸の気をそっちに向けさせる。そうしながら、さり気なく身体を被せ、陸の姿を後ろから見えないようにした。
 ……心が狭いな、と自分で思う。
 この狭量さが陸を閉じ込め、追い詰め、壊したことを知っている。その結果、どれほどの恐ろしい目に遭ったか。その日々はまだ記憶に新しく、思い出す度に心臓が縮み上がるような激痛が走る。
 絶対に失いたくない。失わない。そのためならどんなことでもしてみせる。
 自分の中にあるこの恋情が、狂気に近いことを自覚している。陸の存在が俊彦を狂わせ、それと同時に、陸だけが俊彦をこの現実に留めておけるのだ。 
「俊彦」
 ゆっくりと動くエスカレーターに立つ陸が、俊彦の手を取ってきた。
 三半規管が弱い陸は、暗い足元に不安を覚えたのかもしれない。触れてきた手を強く握り、陸の不安を打ち消す。
 安心したように口端を弛め、陸がまた前を向いた。
 明るくて、それでいてほの暗い、水と光と、乱反射ですべてが柔らかく、歪んだ景色。
 後ろからついてきたさっきの集団が、手を繋いだ二人を見て、きゃあ、と嬌声を上げるのが聞こえた。
「陸、イルカのショーがもう少しで始まるみたいだ。行ってみる?」
 顔を覗き込みながら口を動かすと、俊彦の唇を見つめていた陸が、うん、と頷いた。
「見たい」
 顔を近づけて会話をしている二人に、また後ろが色めき立つ。無音の世界にいる陸は、後ろの騒ぎには気付かず、俊彦の隣で満ち足りた顔をしていた。
「よし。じゃあ行こう」
 陸が平穏であるなら、何も構わない。指をさされようと、陰口を叩かれようと、そんなことはどうでもいい。
 ただ、これ以上興味本位で近づき、陸に不快な思いをさせるようなら、許さない。
 陸が水槽のトンネルに再び目を移した。ほんのりと笑みを残している端整な横顔を見つめながら、自分の手の中にある温かい掌を、俊彦はもう一度強く握った。








novellist