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幸せの端数
2

  館内を観てまわり、休憩を取りながら一日掛けて水族館を楽しんだ。
 外で夕食を済ませ、二人の住む街へと帰ってきた。レンタカーを返し、そこから帰路に就く。
「陸、どうする?」
 陸の目を覗き、唇を動かす。あと五分も歩けば、陸の住むマンションへ辿りつく。俊彦の住まいはその先にある。
 大概の時間は陸の部屋で過ごすことの多い二人だが、たまに俊彦の部屋に来たいと言ってくることもある。どちらにしても異存はない。俊彦の問いかけに思案していたような陸は、「どっちでもいいけど。でも、俊彦は課題とかないのか?」と訊いてきた。
 夏休みを前に、仕上げなければならないレポートは確かに数種あったが、時間をやりくりすればどうとでもなる。「大丈夫だよ」と、陸の気遣いに笑顔を返しながら、そこに一抹の寂しさを感じてしまうのだから、相当重症だ。
 分かっている。前のように我が儘放題な陸はもういない。
 自分の言うことはなんでも通ると信じて疑わなかった陸は成長し、俊彦のほうが成長できていないのだ。
「ならいいけど。じゃあ、僕の部屋がいい」
 返事を聞き、散歩のようだった歩調が、目的を持ったものに変わった。
 部屋に戻り、陸の世話を焼こうと、いそいそと動き回る。窓を開け空気の入れ換えをし、出がけに出しっぱなしだったものを片付け、風呂の準備をした。陸には課題でも片付けていろと言い、酒の飲めない陸のために茶の準備をし、寝室を整える。忙しく働く俊彦を可笑しそうに眺めながら、陸も手伝おうと立ち上がった。
「お前は休んでろ」
「だって……」
「疲れただろ? いいから」
 そう言って座らせようとすると、陸はますます可笑しそうに笑い、やはり俊彦の後ろを付いてくる。
「あのさ。僕も普通の成人男子なんだから、これぐらいで疲れたりしないよ」
 相変わらず過保護過ぎ、とまた笑い、部屋に入ってからもずっと着たままだった俊彦の薄手のジャケットを脱がしてきた。
「それに、二人で動いたほうが、用事が早く済むだろ?」
 もっともな意見に苦笑しながら、陸の言うとおりにする。湯を沸かす俊彦の隣で陸がカップを出し、並べた。注ぐのが俊彦。運ぶのが陸。
 リビングに戻り、向かい合って座り、紅茶を飲んだ。先に陸が一口飲み、ホウ、と息を漏らすのを眺め、それから口を付ける。そんな俊彦の様子を眺め、陸がまた笑顔を作った。
 穏やかな静寂。
 夢見た光景がここにある。ずっと望んでいた、二人の空間。今この瞬間が、夢だったんじゃないかと不安になるほど、幸せだ。
 風呂が沸いたという合図のランプが灯り、陸が俊彦を見る。入っておいでと目で促すと、陸は悪戯っぽく笑い「一緒に入るか?」などと誘ってきて、ドキリとした。
 そんな表情をいつのまに覚えたのかと唖然とするような、甘く、仄かに妖しい微笑を作っている。平静を装い「冗談言ってないで、入っておいで」と促すと、陸は悪戯っぽい笑みを残したまま、バスルームへと消えていった。
「……まったく」
 テーブルに置いてある陸のカップを見つめ、それから溜息を吐いた。身体の力が抜け、そのままテーブルの上に頭を載せた。バスルームからシャワーの音が聞こえてくる。
 保護者ぶって面倒を見ているつもりが、いつの間にか翻弄されている。幼馴染みでありながら、その関係性は大きく変わり、何処となく座りの悪い感覚があり、その座りの悪さが心地好くもある。俊彦に保護されていた陸は完全に自分の手から離れ、それでいて自分の意思で俊彦の腕の中に入ってくる。
 胸に飛び込んできた陸を抱き締めていいのか、或いは優しく髪を撫でてやればいいのか、その度に感情が不安定に揺らめき、そんな俊彦の様子に、陸が優しく笑うのだ。主導権を取りたいとは思っていないが、ではどうすればいいのかと思うと、分からない。陸の前で狼狽え、醜態を晒すのは恥ずかしく、だけど陸はそんな俊彦の感情をきっと知っている。
 開き直ってしまうには、まだ自分の中で整理がついていない。取り戻したという幸福感と、また失ってしまうかもしれないという不安は表裏一体で、その狭間でオロオロと立ち尽くしている。情けないと思うが、それほど陸を失っていた時間が恐ろしかったのだ。
 頭を置いているテーブルの上で、陸の携帯が鳴った。置きっぱなしのそれの振動が、俊彦にも伝わってくる。
 床を叩く水音を聴きながら、携帯を手に取った。振動が止み、着信を知らせる点滅だけが規則的に光っていた。
 水音が止む。浴室のドアが開き、陸が身体を拭いている気配がした。手に持った携帯を静かにテーブルに戻す。自分のカップを手に持ち、俊彦は立ち上がった。
 シンクに飲み残しの紅茶を空け、カップを洗う。バクバク音を立てていた心臓が、手を動かしているうちに静まっていった。携帯を覗かなくてよかったと思う。同時に、誰からの連絡なのかと気になった。大学の関係者か、この時間なら家族からかもしれない。陸の交友関係は狭く、それの全部を俊彦は掌握しているつもりだ。
 ……だが、そうとばかりは限らないと思い直す。一年遅れた陸は、俊彦とは別の大学に通っている。自分が邪魔をしなければ、陸に近づきたい輩は多いのだ。今日の水族館での女の子たちのように。
 以前も合コンだと言ってクラスメートに誘われて出掛けていた。帰ってきた時の陸はだいぶ苛ついていて、何があったのかと聞いても、俊彦には教えてくれなかった。すべてを話せと、そんなことを言う権利は俊彦にはない。だけど、自分の知らないところで、陸が嫌な思いをしたのではないかと思うと、落ち着かなくなるのだ。
 自分が一番酷いことをしておいてと、自虐の笑みが浮かぶ。
 水を止め、脱衣所の気配に耳を澄ます。
 リビングに陸が戻ってきたら聞けばいい。携帯が光っていたぞと言って。
 陸はまだ脱衣所にいる。どのタイミングで戻れば不自然でないか、一緒に携帯を覗くためには。
 あれこれと頭を巡らせている自分に嫌悪が湧く。だけど止められない。
 まだ慣れない。
 まだ……恐ろしい。
 自分の奥深くに潜む、獰猛な独占欲。どろどろした熱情。優しく触れながら、いっそ壊してしまいたいと思う、強烈な衝動。
 悟られたらお終いだ。
 カップをしまい、手を拭いていると、陸がリビングに戻ってきた。
 濡れた髪のまま、ペタン、とさっきと同じ場所に座った。俊彦もリビングに戻り、髪を乾かす準備をした。
 座っている陸の後ろに回る。ここ最近ずっとやっていることなので、陸は大人しく待機していた。用意したタオルで軽く拭いてやり、ドライヤーのスイッチを入れた。
 柔らかい薄茶の髪に指を絡ませ、熱くならないようにと気をつけながら、額から流すようにして髪をかき上げてやる。
 目を閉じた陸は心持ち上を向いて、風に当たっている。パジャマ代わりのTシャツから、華奢な鎖骨が覗いていた。
 髪をかき混ぜられながらふと、陸がテーブルにあった携帯に目を落とした。点滅しているそれを取ろうとして、途中で止まる。伸び掛けた手が膝の上に載せられた。
 俊彦に髪を乾かしてもらっておきながら、自分だけ携帯を確認するのは失礼だとでも思ったのか。見てもいいよと声を掛けるには、ドライヤーの手を止め、後ろから顔を覗かなければいけない。こっちのほうこそ、そこまでして携帯を見ろとも言えず、黙って手を動かし続けた。
 髪の毛が完全に渇いた。サラサラの細い髪が形の良い頭を包んでいる。指先で乱れを整えてやり、仕上げとばかりに掌で撫で下ろした。終了の合図を受け、陸が顔を上げた。こちらを向かずに「ありがとう」と言うのに、ポンポンと軽く手を置いて返事をした。
 タオルとドライヤーを洗面所に置きにいき、戻ってくると、陸が携帯を確認していた。
「森がね」
 携帯に目を落としたまま陸が言い、うん? とその顔を覗きながら陸の隣に座った。
「夏休みどうするのかって。田舎にいつ帰るんだって、メールがきた」
「夏休みか……」
 目の前に携帯を翳され、液晶に目を落とす。
「まだ何も考えてなかった。陸はどうしたい?」
 俊彦の顔を見ていた陸が、もう一度携帯を眺め、「そうだね、僕も考えてなかった」と言った。
 さり気なく覗いた画面には、短文が綴ってある。絵文字もない簡潔な文字が三行並んでいた。
『夏休み』『田舎』の文字を読み、改めて考える。ここ数週間の生活の変化に気が行き過ぎて、そういったことにはなんの考えにも及んでいなかったことに気が付いた。
 陸の祖父や祖母、数少ない陸の友人も、彼のことを気遣い、心配しながらも静かに見守っているのだ。先に配慮すべきは俺のほうだったと、自分の視野の狭さにまた反省の念が湧いた。
「大学に入って初めての長期の休みだしな。夏休みが始まったら、早めに帰ろうか」
 俊彦の提案を、陸がじっと見つめる。真っ直ぐな瞳と、何か言いたげにほんの少し開いた唇が、次には笑顔に変わった。
「……うん。なるべく早く帰りたい。雪野さんの料理も食べたいし」
 そうだね、と相槌を打ちながら、俊彦も笑顔を返した。
 帰省の相談をするのに、陸は俊彦の都合を聞こうとして、思い留まったことを知る。聞かれたところで俊彦が陸に合わせることを、彼も知っているのだ。
「お風呂、俊彦も入っておいでよ。今日は暑かったし、汗かいただろう?」
 笑顔のままそう促され、俊彦は素直に立ち上がった。
 互いに気遣い、思惑の距離を測る。陸が壊れてからのあの頃よりは近づき、それ以前の遠い昔の頃よりは遠い。お互いにそれを分かっていて、探り合っている。
 隙間のないほどにピッタリと合わさっていたあの頃と違い、そこにある微妙な隙間に、ふわりと空気が入っているような感じだ。
 その隙間を感じる度、胸が軋むような痛みを覚え、それを呑み込む。たぶん、陸と共にいる間中、この痛みはずっと続くのだと思う。
 それは、俊彦が犯した罪の残骸だ。昔のようには決して戻れないと、この痛みが教える。だけどそれと同時に、陸が自分の元に戻ってきたことを、俊彦は実感するのだ。







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