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続・月を見上げている

 今年の桜はいつもの年よりも、駆け足で日本を駆け抜けたらしい。
 例年なら、五月の連休のこの時期に満開を迎えるはずの札幌の桜も終わりに近いという。 
 通っていた高校の校庭に、大きな桜の樹があったことを思い出した。夜になると、学校で付き合っている連中がデートに訪れて、それを見物しに来た悪趣味な連中と毎年争っていたなあと、自分にはまるで関係のなかった恒例行事の記憶を、ぼんやりと辿っていた。
 眼下に広がる海は青くて、広い海原に影を落とす雲の数もまばらだった。明日もきっと晴れるだろう。
 窓から隣の男へと視線を移す。黙って新聞を読んでいた顔が、樹の視線に気づいてこちらを向いた。
「晴れてるな。明日も大丈夫そうだ」
 何も言わなくても樹の考えていたことが解かったように言う。狭い座席に大きな体が窮屈そうだ。
 姉と幼馴染の結婚式に出席する為に、樹は実家のある札幌へと帰る途中だ。明日挙げられる式に参列して、一泊実家に泊まって帰る予定だった。式は午後からだったから、当日の朝に出発してもよかった。
 実際、実家にはそう伝えてある。朝の便に乗って、そのまま会場へ行くと。
 なのに前日の飛行機に乗っているのは、ひとえに隣の男が、式に呼ばれてもいないこの男が、一緒に行くと言い出したからだ。
「だから、行ったって、俺、一緒にいられないから」
「だったら前の日に行っとけばいいさ。当日だと何があるかわかんねえし」
「それはそうだけど、何であんたが一緒に来んの?」
「そりゃお前、北海道つったら、行くしかねえだろ?」
 相変わらず訳がわからない。こっちは慶事で帰るというのに、温泉だの、湿原をカヌーで廻りたいだのと一人で夢を膨らませている。
「そんな事言ったって、この時期、馬鹿高いし、どこも一杯だって」
「大丈夫だ。知り合いに旅行代理店に勤めている奴がいる」
 ブツブツと文句を言う樹に、家族の邪魔はしないから、嫌ならどこにも行かずにホテルで大人しく待っているから、一緒に行きたいんだと懇願されて、結局折れた。
 本心は嬉しくないはずはなかったが、いずれ旅行に行くのなら、こんなついでのような旅行ではなく、きちんとした形で行きたかったと、この無神経男には伝わるはずもなく、こうして一緒の飛行機に乗っている。
 札幌に着いたら、近くのホテルに一泊して樹は次の日式に参列した後、実家に泊まる予定になっている。そして、同じホテルに二泊した大輔と温泉宿に行くことにしたのだ。
 どうしてこんなに忙しい思いをしなくてはならないのかと隣を見やると「寒いか?」と、いつものようにお門違いな気遣いをみせて、毛布を掛けてくる。寒くないからと、掛けられた毛布をはずそうとする前に、大きな手が滑り込んできて、樹の腿のあたりを擦ってきた。
「っ!」
 思わず叫びそうになって、慌てて口を手で押さえた。何食わぬ顔で内腿の際どいところを行き来している手を毛布の上から押さえつけた。
「……この、エロ親父!」
 押し殺した声で罵っても涼しい顔だ。
「まあまあ、文句は後で聞いてやる。宿までもうちょっとの我慢だ」
 何が我慢だ。憤然と毛布の上から抓ってもニヤニヤしながら動じない。
 そのうちにじんわりと、大輔の掌の熱が太ももに伝わってきて、この手が樹に与える快感を思い出させ文字通り、宿に着くまで我慢させられる羽目になった。
 いつも、こうだ。
 傍若無人で無神経なこの男は、常に自分勝手に行動し、樹を翻弄する。
 年度が変わり、大輔は樹の勤めていた浅草橋営業所から、さいたま新都心にあ本社へと異動をし、引越しもした。
 新しい部署で忙しい思いをしながらも、週末はお互いの部屋を行きあっている。
 樹自身も四年目となる今の営業所で、ポジションを確立し、退社後の研修もこなしつつ、恋人との時間を楽しんだ。
 まだ数えるほどの逢瀬だったが、すでに樹にとっては無くてはならないほどの、いったい今までどうしていたのかを思い出せないくらい、大輔は深い所まで樹の中に浸入していた。
 今日の旅行と同様に、いくら平静を装っていても、大輔の要求に最終的には従ってしまうのだ。
 どんなに悪態をついても、邪険な態度をとっても、大輔は今みたいにニコニコとしていて、楽しんでいるようだ。そして樹もそんな大輔に甘えてしまう。
 長年かけて築いてきたものを、たった一か月余りの間に変えられてしまった。頑丈に掛けておいたはずのストッパーを、大輔はいとも簡単に外して、取り去っていったのだ。
 甘やかされる喜びを覚えこまされた体は、もう我慢をするということを忘れてしまった。
 あの腕に抱きこまれれば、抗うことも出来ずに柔らかく溶けて、優しい声に乞われれば、その先の甘い行為への期待に力を失ってしまう。
 これほどまでにのめり込んでしまった自分に恐怖すると同時に、そんな樹をすべて受け入れようとしてくれる男が愛しくて堪らない。
 飛行機が静かに降下を始めた。ゆっくりと降りて行く疼きが、飛行機の与えるものなのか、隣の男が与えているものなのか、わからなかった。
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