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続・月を見上げている

 夢を見ていた。
 すごくいい夢だった。
 どんな夢だったかは、覚醒の気配と一緒に消えてしまい、憶えていなかったが、穏やかな余韻だけが残り、それが心地よかった。
「起きたか?」
 髪を撫でられて、ああ、いい夢は、この手のせいだったのかと、ぼんやりと思う。
「……俺、寝てた?」
「ああ」
「どれぐらい?」
「一時間ぐらいかな」
 流れる水音が耳に届いてきた。外はすっかり宵闇に包まれて、月は遥か上に昇っていた。
「吃驚したぜ。死んだかと思った」
 髪を撫でる手は止めないまま、その口は何か言いたそうに緩んでいる。
 嫌な予感かした。
「……頼むから……」
「ん? なんだ?」
 相手が何か言う前に、牽制をする。
「感想とか言わないでくれよ」
「……そうか?」
 残念そうな顔に、やっぱり何か言おうとしていたなこの男は、と睨んだが、たぶんあまり効き目はないだろう。急に恥ずかしくなって、体を縮めて布団に潜ったが、すぐに剥がされて顔を覗かれ、軽く合わされた唇は、塩味がした。
「一人でなんか食べた?」
「おう。カップ麺とお握り食った。お前も食べるか? それとも、外行くか?」
 急に空腹を感じて身を起こしたら、さっき放たれた大輔の余韻が腿を伝って流れ落ちた。
「……部屋で食べる。先に風呂入りたい」
 それで通じたのか、一度離れかけた大輔がまたベッドに上がってきた。
「洗ってやる」
 抱きかかえられそうになって、慌てて断る。
「い、いいよ。自分でする」
「駄目だ。約束しただろ?」
 約束? 何のことか解らなくて首を傾げたら「なんだよ。憶えてねえのか」と、強引に抱き上げられた。
「ちょっ、なに?」
「まあいいや。約束は約束だ」
 そのまま室内風呂に連れて行かれた。浴室に立ったまま、シャワーを掛けられる。「ほれ」と片足を担がれて中を洗われた。
「やめっ……」
 抗議の声は唇で塞がれて、もう逆らえなかった。石鹸をなすりつけた手で体中を洗われて、息が上がる。
「お。素直じゃねえか」
「あんたが……やりたい放題なんだろっ」
 せめてもの仕返しに悪態を吐いたけれど、相変わらずものともしない。丁寧に洗う手は優しくて、緩んだ口元はとても嬉しそうだ。
「俺のもんだろ?」
「ん?」
「全部、俺のもんなんだろう?」
 さっき意識を飛ばす前に、何か言ったような気がする。うわ言のように返した言葉はよく思い出せなかった。でも、子供のように聞いてくる問いかけが、なんだかとても……とても愛しくて、返事の代わりにキスをした。
 すっかりすべてを洗われて、備え付けの浴衣を着せられた。帯を結ばれる間も子供のようにおとなしくされるままになっていた。胸の合わせが左右逆なような気がしたが、それを言うと「そうか? まあ、どっちにしろ、な……」と、ニヤニヤされてそのままにされた。
 部屋に戻って大輔の膝に抱かれたまま、買ってきたお握りを食べた。包装を剥いてくれて手渡される。喉が渇けばお茶の入ったボトルを口元へ運ばれて、素直にそれを飲んだ。食べている間も大輔の手は、樹の体のあちこちを悪戯して、くすぐったくって身をよじると、お茶が零れるだろうと、逆に叱られた。
 なんだか食べた気がしなかったけれど、お握りを三つ食べてお腹は落ち着いたが、食べ終わる頃には浴衣は紐だけになっていた。
 せっかくだから散歩しようと誘われて外に出た。
 空の月と、地面の雪洞で明るく照らされた夜の小道を手を繋いで歩いた。夕飯時だからなのか、二人以外誰もいなかった。
 岩畳の階段を少し上がると、小川のせせらぎが大きく聞こえてきて、むこうに小さな滝が見えてきた。滝の落ちる手前に桜の樹が植えられていた。満開の桜が、滝の撒き散らす飛沫に静かに揺れて、綺麗だった。
 月が明るく照らしている。
 去年もこうやって空を仰いだ時、大輔が傍にいたことを思い出した。
 あの時に月はあっただろうかと考える。こうして一年後に二人でいることを、改めて噛締める。大輔も同じように思い出してくれているだろうか。――あの日、樹は大輔に恋をしたのだ。
「あん時さ」
 月を見ていた大輔が唐突に口を開いた。
「お前、桜の詩がどうだとか言ったよな」
「……ああ」
 やはり同じ事を思っていたのかと嬉しくなる。
「桜だ桜だって騒いでる他所で、誰かが泣いてるって」
 黙って隣の男を仰ぎ見た。
 大輔は笑って月を見上げている。
「……よく」
 樹はあのとき、どんな詩なのかは説明しなかった。誰の詩だとも、何を詠った詩だとも説明はしていない。
 樹の呟きのような言葉を拾い集め、大輔は辿りついたのだ。
 天蓋のように広がる桜の上、明るい月が照らしている。
「本当の春には逢えたかな。俺も、お前も」
 大輔の横で、樹も月を見上げる。
 浮かぶ月は、遙か遠くで、二人の春を祝うように、笑っていた。







   桜

  さくらだといふ  
  春だといふ  
  一寸、お待ち 
  どこかに
  泣いてる人もあらうに


おなじく

  馬鹿にならねば
  ほんとに春にはあへないさうだ
  笛よ、太鼓よ
  さくらをよそに 
  だれだらう
  月なんか見てゐる

    筑摩書房 「現代日本文學大系41」     山村暮鳥 『雲』より
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