INDEX
あの日たち
10

 駅前で斉藤さんが出てくるのをずっと待っていた。
 鍋の材料を一緒に買おうと思い、彼の帰る時間の見当をつけて、駅までやってきたのだ。
 昨日、ご馳走になるだけなって帰ってしまったことが気がかりだったし、荷物持ちぐらいは出来るだろうし、二人で買い物をした方が楽しいと思ったから。
 駅から吐き出される人の波の中、ゆったりと歩いてくる斉藤さんの姿をすぐに見つけた。改札から出てくる彼に声を掛けると、驚いたように上がった顔が笑顔に変わった。
「どうしたの?」
「うん。俺も今さっき帰ったとこで、そろそろ斉藤さんも来るんじゃないかなって」
 一旦帰ったのにまたやってきて待っていたなんて言うと、恐縮されるかもしれないし、気恥ずかしい思いもあったから、そう言い訳して隣に並んだ。
 ゆっくりと歩く斉藤さんに合わせて俺もゆっくりと歩を進める。
 途中にあるスーパーで、あれこれ相談しながら買い物をした。
 俺が買い物籠を持って、食材を吟味しながら斉藤さんが入れていく。
「トマト鍋って、三好君は食べたことがある?」
「えー。知らない。食べたことない」
 俺の応えに斉藤さんが笑っている。
「今日はそれにしてみましょうか。三好君、トマトは好きですか?」
「好き好き」
 田舎の庭には小さな菜園があり、母親がインゲンやナスなんかの野菜を作っている。父親が釣ってきた魚と母親の育てた野菜がよく食卓に乗っていた。もぎたてのトマトは店で買う物よりも酸っぱくて、青くて濃い味がした。俺はそれが好きだった。
 予め調べてきたらしい斉藤さんは、トマト鍋に入る材料をカゴに入れていった。
「でもほとんど生でしか食べたことない。母ちゃんがテレビ見て、オリーブオイルで炒めたり、しばらくそういうのに凝ってた時があったけど。でも鍋は初めてだ」
「トマトは生よりも火を加えた方が、リコピンっていう栄養素が増えるらしいですよ」
 斉藤さんがトマトの栄養を説いている。
「へえ。リコピンっていうんだ。トマトってカロチンも多いんだよね。赤いし」
「それは人参ですよ。トマトの赤はリコピンです」
 俺の答えに斉藤さんがクスクス笑っている。
 トマトにはカロチンが多く入っていると俺に教えたのは母親だ。
 あのばばあ、いい加減なことを言いやがって。知らずにいろんな人に『トマトのカロチン豊富説』を言っちまったじゃないか。
 忘れないように、リコピンリコピンと、初めて憶えた名称を口の中で繰り返し唱える。
 最初の刷り込みは大きい。それに『リコピン』なんて言葉知らなかったし、すぐ忘れそうだ。 
「でもずっと『カロチン』って憶えてたから、またカロチンって言いそうな気がする、俺」
「たぶんそうでしょうね」
 尚も可笑しそうに斉藤さんが笑っている。すごく楽しそうな笑顔に、俺も笑顔になる。
 トマトを見る度に、斉藤さんはそのことを思い出して笑うんだろう。そう思うと、悪い気はしなかった。
 鍋の材料と、俺が昨日飲んでしまったビールと、ちょっとしたつまみも買う。
「鍋がつまみにもおかずにもなるんですからね。お菓子は少しだけですよ」
 遠足前の先生のような口をきく斉藤さん。
 分かりましたと殊勝に答え、斉藤さんが見ていない隙に、そっとポテトチップスを入れておいたら、また楽しそうに笑われた。
 楽しい買い物を済ませ外へ出る。
 遠慮する斉藤さんから無理矢理全部の荷物を取り上げて、やはりゆっくりと坂道を上った。
 初夏の風が緩く吹いている。
 午前中に降っていた雨は上がり、遠くに月が浮かんでいる。朧月だった。
「明日は晴れるかな」
 月を見上げてそういうと、斉藤さんは俺につられるようにして顔を上げ「ああ」と、声を出した。
「この時間は、あんなに遠くに見えるんだ」
 呟くようにそう言って、月を眺めている。
 浮かぶ月は、遙か高く、遠く遠く小さい。
「この季節だからじゃない?」
 月が小さいのが残念そうな斉藤さんに、そう言ってみた。
「前に、もっと大きいの見たことあるよ、俺」
 いつだったか正確な記憶はなかったけど、確かに目の前に迫るような大きな月を見上げたことがある。
 冬の澄んだ空気の中だったのか、今日のような雨上がりの宵の口だっただろうか。
 季節は定かではないが、大きな月を見上げた記憶が確かにあった。
 あのときは誰と一緒に見たんだっけ。亜子かな。それとも一人で見上げていたのか。
 坂道を上っても、月は近づかない。
 歩を進めた分だけ月も遠ざかる。
 まるで覗かれているような、大きな月に照らされたのは、あれはいつのことだったんだろう。



novellist