INDEX
あの日たち
9

 後片付けの前に一息入れているとき、俺の携帯が鳴った。
 作ってもらっているのだから、片付けは当然俺の役目だ。斉藤さんもその辺は遠慮しない。お互いに出来る範囲で協力し合っている。気楽な隣人ライフだ。
 鳴っている携帯の液晶を見たら、亜子からだった。俺の現在の彼女だ。
「はい」
『あ、ハル君? 今どこ?』
彼女は俺のことをハルと呼ぶ。眞治と書いて《マサハル》と読むからそう呼ばれている。斉藤さんはかなり長い間、俺の名前を《シンジ》だと思っていたらしい。手書きで書いた表札にも、郵便受けにもフリガナなんて振っていなかったから。入院しているときに、俺の母親に聞いて、初めて知ったと言っていた。部屋の前ですれ違ったり、近所のスーパーで会ったとき、その度に彼女が俺をそう呼ぶのを不思議に思っていたが、深くは考えなかったと言って、笑っていた。二人にしか通じない、暗号のようなものなのかなと勝手に解釈していたと。
「隣んちにいるよ。飯食ったとこ」
電話の向こうで亜子が笑う気配がした。またかと思っているんだろう。
『ね、これからそっち行ってもいい?』
「……あー、いいよ」
ちょっと考えたけど、そう返事をした。この時間にやってくるなら、たぶん泊まるつもりなんだろう。一時間ぐらいで着くだろうからと言われ、分かったと返事をして携帯を閉じた。
 その時間に駅に迎えにこいということだ。
「亜子さん?」
 斉藤さんは当然俺の彼女のことを知っている。女子大に通っている亜子とは、大学二年の時に合コンで知り合った。事故前からここへは何度も来ているし、事故後も付き合いは続いている。
「うん。なんか、これから来るんだって」
 わざと面倒臭そうに言って片付けようと立ち上がった。
「片付けはいいですよ」
俺と一緒に皿を運びながらそう言う斉藤さんに「いいから。これぐらいする時間あるし」とシンクに水を溜めた。
 材料はうちのだけど、料理して御馳走してもらっておいて、彼女来るから帰りますなんていうのは、いくら何でも図々しすぎる。そういう奴だと思われるのも嫌だった。
 本当はもう少しゆっくりしたかったのに。
 亜子のことは好きだし、話せば楽しいし、泊まるとなれば、俺だって男だしいい思いも出来るからそれはいいんだけど。けど、やっぱりもうちょっとここでまったりしたかった。
 斉藤さんの部屋の、俺のお気に入りのソファでお茶なんか飲みながら話したり、黙ってテレビを眺めたりするのが好きだった。
 食器を洗っている俺の横で、斉藤さんが皿を拭いている。彼が申し訳ないと思っているのが伝わってきて、こっちの方が悪いのにと思う。
 何となく不快な気分を持て余し、なんでこんな気になるんだろうとふと不思議に思った。
 怒りに似た感情は、斉藤さんに向いているものじゃない。やってくると言った彼女に対しているのとも違う気がする。勝手なことを言う俺の方が、ただの我が儘なんだろう。
 来たいと言ってきた彼女にいいよと言ったのは俺だ。だけど断れば何で? と訊かれるだろうし、斉藤さんがもっと気を遣うだろうと思った。
 不快な気持ちを持て余したまま、ぐずぐずと台所に立っている俺を、斉藤さんがほらほらと促して、部屋を追い出されてしまった。
「ご馳走様でした」
 後ろ髪を引かれる思いで挨拶をすると、斉藤さんはいつものように穏やかに笑って「こちらこそ」と言った。
「明日、野菜買ってくるから。鍋ね」
 明日の約束を確認する。子供のようだと思いながら、それでもしつこく念を押した。



novellist