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あの日たち |
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「斉藤さんは? 彼女とかいないの?」 ふと思いついて聞いてみた。 「彼女? そうねえ、今はいませんね」 笑いながらそう答えるのに、そうだろうな、と素直に納得した。 分かっていて聞いたところもある。 結構長い間隣り同士で住んでいて、恋人らしき人が訪ねてきた気配を感じたことがない。今だってこうして俺がいつ訪ねてきても、困った素振りも、都合が悪いってことも一度もなかった。 だからきっと付き合っている人はいないだろうなと思っていて、わざと聞いてみたところがある。 ただ『今は』と言った言葉に引っかかった。 学生のときだって、社会人になってからだって、恋愛はするだろう。不思議じゃない。 物静かであまり目立たない装いを好む斉藤さんだが、こうして静かに笑っている表情なんか見ると、男の俺でもちょっと見とれてしまうぐらい、綺麗な顔立ちをしている。 性格は穏やかだし、物腰も穏やかで理知的だ。年がずいぶん下だってこともあるけど、男の俺がこれだけ甘えられるのだ。女性にもきっと物凄く優しいんじゃないかなと思う。 「ふうん。今はっていうことは、前はいたんだ」 当たり前のことを俺は聞いている。 今はいないというのは、前はいたということだ。それから、これからの可能性を言っている。 俺の問いに、斉藤さんは曖昧に笑った。 この人はいったいどんな風に人を好きになり、どんな会話をし、どんな風に――愛するんだろう。 「どんな感じの人? なんかあんまり想像できないな、斉藤さんの彼女とか」 「……嘘です。ちょっと見栄を張りました。付き合った人なんて、いないです」 はにかみながら言う声を、意外な思いで聞いていた。 「嘘」 「本当です」 へえ、と驚いて見せる俺の前で、斉藤さんは照れくさそうに笑った。 「でも、でもさ、好きな人とかはいたんでしょう?」 勢い込んで質問する俺に、斉藤さんはまた笑った。 凄くいい笑顔で。俺に今まで見せたことのなかったくらい、いい笑顔で。 「なんか、もの凄くいい笑顔なんですけど」 俺の台詞に、ふふ、とまた笑う。とても幸せそうにして、斉藤さんが思い出している。とても好きだったという、その人を。 「どんな人だった? 美人?」 「そうねえ。……とても、可愛い人でした」 「ふうん。可愛い人が好みなんだ」 「そういうのでもないんですけど。性格が可愛いらしくて。凄く……好き、でした」 「ふうん。甘え上手っていうやつ?」 亜子にもそういうところがあるし、学校にも甘えたがりな女の子も多い。この人もそういうのが好きなのかと、少し興ざめした思いで質問を重ねる。 「そうね。うん。とても甘え上手だった。本人が分かっているのかいないのか。いや、分かっていたんだろうな。僕は言うことを全面的にきくしかなくて」 「なんだ。付き合ってたんじゃないか」 「違います」 「そうなの? 年下?」 「……そう。本当に、甘えるのが上手で。ちょっと、困った」 ちっとも困っていないじゃないかという顔で斉藤さんが俺にのろける。付き合っていなかったという彼女なのに、なんでそんなに嬉しそうなんだろう。 「今でも好きなの?」 「……ああ……うん。そうですね」 「忘れられない?」 「そうですね。凄く……好きだから」 好きの言葉を過去形でなく答える斉藤さん。未だに凄く好きだと俺に打ち明ける彼は、とても幸福そうで、少し……なんだろう。 面白くないと思う、この気持ちは。 「そんなに好きなのに、告白とかしなかったの?」 「そうね。できませんでした」 「でも、向こうも斉藤さんのこと、好きだったとかじゃないの?」 「ないです。そうだったら、とても嬉しいですけど」 「言ってみないと分からなかったんじゃない?」 しつこく聞いてみても、斉藤さんは曖昧にして答えてはくれなかった。 「……事故で昏睡していたとき、その人の夢を見ていました」 「あの事故で?」 「うん。そう。夢の中で、僕はその人と恋人同士になっていて、すごく、幸せな夢でした」 静かにその頃の夢の話を語る斉藤さんは、本当に幸福そうな笑みを浮かべている。 「僕はその人と、ほとんど一緒に暮らしていて、二人で買い物をして、一緒にご飯を食べて。ずっと一緒にいようねって、約束をしていました。夢のように幸せで、夢ならずっと覚めたくなかった」 だけど目覚めてしまった。 そう言って笑う斉藤さんの顔は、笑っているのに――泣き顔にも見えた。 でも、こうして目覚めて元気になったんだから、という言葉を、俺は言えなくなった。 目覚めて、今こうして俺といるよりも、夢の中で彼女と一緒にいたかったと言われるのが、恐かったから。 「今どうしてんの? その人」 「元気にしていますよ」 「会いに、行かないの?」 俺の質問に、斉藤さんは黙って笑っている。 「もうその人とは、その、絶対に一緒になれないの?」 「なれませんね」 「どうしても?」 「はい」 はっきりと頷く顔は、諦めというより、むしろ満足そうで、その人が元気でいてくれるならそれでいいという言葉が、嘘ではないことが痛いほど伝わってきて、そういう愛の在り方があるということを、その日、俺は教えられた。 |
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