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あの日たち
14

 夏休みが終わり、俺の大学生活の方も、正念場という所にさしかかっていた。
 ゼミに顔を出し、レポートにも神経を使う。何より自分がどういう職に就きたかったのかを改めて考え直していた。
 去年事故に遭う前は漠然と考えていたことが、今目の前の消化しなければいけない問題として大きく立ちはだかる。それまでは何となく、高望みさえしなければいいかという甘い考えを持っていた。
 亜子の苦労を見てきたこともある。一年ダブって猶予が出来たこともある。事故に遭って、考え方そのものが変わってきたこともある。
 だけどその根底には、斉藤さんからの影響が大きい。
 初めはただの不運だと思った。
 意識不明だった自覚がないから、人に大変だったと言われても、ピンとこなかったこともある。だから他人からそのことを大げさに騒ぎ立てられるのが嫌だった。
 だけど斉藤さんは、そのことを大事にしなさいと俺に言った。自慢することではないけど、卑下することは何もないと言った。
 あれだけの怪我を負って、生還したんだから、それは誇ってもいいことだと言う。それで得たことを大切にしろとも言った。
 確かにあの事故以来、俺自身大分変わったと思う。周りが変わったこともあるが、やはり俺の、人を見る目が変わったのだと、最近になってそう思うようになった。
 俺を心底心配してくれた人は、結局事故前も事故後も根本の接し方が変わらない。優しい人は優しく、無愛想な人は無愛想なりに俺を気遣ってくれた。
 大して親しくもなかったのに、事故後急に増えた友人たちは、学年が上がるとまた以前のように自分の場所に帰って行く。置いてけぼりをくったような気分で焦っているころに、やはり口もきいたこともなかった元クラスメートが声を掛けてくれたりもした。
 入院中もたくさんの人と関わり合った。直接俺の治療に携わってくれた人も、そうでない人も。俺が眠っている間も、目覚めてからも、リハビリする間にも、たくさんの人の手があることを経験した。
 俺は、働く、という意識でアルバイトをしたことがない。
 学業が本分だという両親の考えもあったし、しゃかりきになって稼ぐ必要のない仕送りも、たぶん他の人よりも十分にあった。要は苦労知らずの学生だということだ。
 たまに声がかかる仕事はコンサートの設置搬入だとか、イベントやファッションショーとかの手伝いで、割と派手めな世界だった。
 だから単純に、こういう職種がいいかな、なんて思っていたが、最近その考えを捨てた。それらの業界が厳しいということもあったが、そればかりじゃない。
 病院に出入りする人たちの姿を見て、こういう仕事もあるんだなと思ったのだ。
 医療関係の仕事を目指す人たちは理数系が多いのかなと思っていたが、聞けば案外そうでもないという。
 研究職は別にしても、営業だとか企画開発などは文系が多く、勉強次第ではそれが有利に働くらしい。言葉を操り、ディベートが出来る、つまりは自分を売り込み、商品、企業を売り込むのに長けているという。
 自分が出くわした事故の経験も、もしかしたら生かすことが出来るかもしれない。
 亜子にそれを言われたときは反発したが、今は素直にそう思える自分がいた。
 そんな風に、遅ればせながら就職に当たっての活動を始め、その相談だのの名目で、俺は相変わらず隣人の部屋に入り浸っていた。
 母親から荷物が来たときはもちろん、なんの用もなくても訪ねている。それこそ毎日のようにだ。
 たぶん、俺は甘えているんだと思う。
 今は恋人はいないと言った言葉を信じ、彼のプライベートな時間を独占している。
 凄く好きだった人がいて、でも一緒にはなれないという斉藤さんは、まだ新しい恋をする気にならないんだろう。
 だからそれに甘え、迷惑がらない彼に安心してべったりと張り付いている。
 単純な独占欲だ。たぶん。
 自分でそう分析している。隣人の部屋が、彼の傍が余りにも居心地がよすぎて、それに甘えきっているのだと思う。
 亜子とも自然に疎遠になった。
 急に電話を掛けてきて家に来るというようなこともなくなった。もっとも、そう言われたら、断るだろう。俺からも連絡はしていない。
 どうしたんだよと問い詰める気にならないこと自体、終わっているんだろうと思う。
 斉藤さんがそのことを気にしているのも知っていた。
 いつものように母親から送られてきた食材を持ち込んで、一緒に夕飯をとっているときに、「最近、亜子さんはどうしていますか?」と訊かれ、正直に今の状況を報告した。たぶん、このまま別れるんじゃないかということも。
「そうですか。残念ですね。とても仲がよかったのに」
 斉藤さんが本当に残念そうに言って、俺を労る素振りをする。俺としてはもう吹っ切れているつもりだったから、かえって気を遣ってしまった。
 俺の亜子に対する気持ちは、斉藤さんの持つような――一途なものとは違うのだから。
「んー。でも、そんなもんだよ。何となくね、そんな予感がしてたから」
 そう言って笑うと、彼が泣きそうな顔をしたから慌ててしまった。
「大丈夫だよ。俺、そんなに落ち込んでないし」
「そんなことはないでしょう? だって、あんなに……」
「本当だって」
「いつも一緒にいて、楽しそうでした」
「そうだった?」
「コンビニで楽しそうに買い物していました」
「コンビニ?」
 どこのコンビニで? と訊こうとした俺の話を無視して、斉藤さんが俺と亜子との思い出を一人で語り出している。
「カップ麺しか買わない三好君を心配して、亜子ちゃん総菜を買ってましたよ。うまい棒と。うまい棒はどうかなって思いましたけど」
 そんなこともあったっけ、と朧気な記憶を辿ってみた。確かに俺は自炊が出来なかったし、亜子も亜子で家庭的な子でもない。
「その時も三好君はトマトにはカロチンが多いって力説していました」
「ああ。そうなんだ」
 いつか教えてもらったトマトの栄養素の名前は忘れてしまっていた。
「二人、微笑ましくて……それが、何で……こんなことに」
 まるでこの世の終わりのような顔で嘆いている。
「スーパーの前の、あの坂道も、手を繋いで歩いていて。僕は邪魔にならないように後ろをゆっくり歩いていました」
「そうなんだ?」
「はい。二人、本当に楽しそうで」
 当人たちよりもしんみりと、二人の思い出を語られてしまい、不思議な気持ちになった。 
 斉藤さんは、自分の成就出来なかった恋を、俺たちに重ね合わせて見ていたんだろうか。
 人の恋愛事なのに、まるで自分のことのように傷つき、泣きそうな表情をしている目の前の人が、健気で、可愛らしく、申し訳ない気持ちになる。
「あの、ごめん。せっかくそんな風に言ってもらってんのに、こんなことになって」
「あ、いや。こっちこそ悪かったです。三好君のことなのに。そうですよね。人の気持ちなんて、どうにもならないことってあるから」
 慌てた斉藤さんが俺を慰めにかかる。
「三好君なら、またきっとすてきな人と恋が出来ますよ。今すぐは無理でも、きっと出会えますから」
 あなたは? と、懸命に慰めてくれている人に眼で問いかける。
 あなたはもう、誰も好きになることはないんだろうか。
 いつかまた、一途に想う相手を見つけ、誰よりも大切にするんだろうか。
 そのとき俺は、どうすればいい?
 今のように傍にずっと居られるためには、どうすればいいんだろう。


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