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あの日たち
16

 部屋の真ん中に座っている亜子を残し、俺は一人オロオロと、お茶の用意などをしてみたりする。
 とても真正面に座る勇気もなかったし、一旦落ち着きたかった。俺も、亜子も。
「……ハル君、ごめんね。ちょっと取り乱しちゃった」
 テヘ、と笑って舌を出す亜子。
 ……て、おい。まさかあれは演技だったとか?
「だってハル君、本当に迷惑そうな顔するんだもん」
 けろっとして笑っている亜子の前に、コーヒーカップをダンと置いた。
 俺の怒気など気にも止めず、亜子は「変わらないねえ」と部屋を見回す。さりげなさを装っている目は、油断なく部屋の隅々まで観察している。多分自分以外の誰かの形跡を伺っているんだろう。
 やましい証拠なんか何もない自信はあったし、そんなことをする亜子が苛立たしくて、ただ黙ってそれを見ていた。
「気が済んだか?」
 検分を終えて、カップに口を付けるのを見てからそう言うと、亜子が薄く笑った。とても嫌な笑い方だと思った。
「別にお前が疑っているようなことなんか、なんもねえよ」
「じゃあなんで電話もメールもくれなかったの?」
「そりゃ、こっちも同じだ。お前だって連絡くれなかったじゃないか」
「違うもん」
「何がだよ?」
「普通、彼氏の方から連絡するのは当然でしょう? そんなの」
「そんな決まりは知らないな」
 不毛な会話だ。
 話の内容の馬鹿馬鹿しさに嫌気がさしたが、さっきの斉藤さんの言葉を思い出し、ちゃんと片を付けようと、居住まいを正した。
 亜子も大概だと思うが、俺も不誠実だったと思う。連絡がないのをいいことに、なあなあにして終わらせようとした。きちんと決着をつけるのは、男としてというより、人としてのけじめだ。
「亜子。ごめんな」
「なぁに? ハル君。変なのー」
 正座をして頭を下げる俺を、茶化すような声を出して、亜子が怯えた目を向けた。
「確かにちゃんと言ってなかった。亜子」
「やだ。聞きたくない」
 耳を塞ぐ仕草をする亜子に「別れよう」と静かに言った。
「……なんで?」
 塞ぎながらも、しっかり届いた俺の声に亜子が聞き返す。さっきドアを開けたときと同じ、剣呑な表情をしている。
「……何で? ハル君。やっぱり浮気してたんだ」
「違う」
「じゃあなんで?」
「ごめん」
「私、なんか悪いことした? 嫌いになるようなこと、したのかな」
「そういうんじゃない」
「他に好きな子いるの?」
「……ごめん」
 亜子の目が吊り上がった。
「やっぱり……浮気してたんだ」
「浮気じゃないよ」
「だって、好きな子が出来たんでしょ? その子と付き合うんでしょう?」
「付き合わない」
「なんでよ。その子と付き合いたいから、別れようって、そう言ってるんでしょっ」
「違うんだ」
 俺の言いことに、わけが分からないという顔で、亜子がしつこく訊いてくる。
 付き合うことなんかできない。まして、気持ちを打ち明けることすら出来ない人なんだ。
 謝り続ける俺を、亜子が睨んでいる。
「分かんないよ。私よりその人が好きになったんでしょう?」
「……ああ」
「だから別れたいんだよね。別れてその人と付き合えばいいじゃない。てか、もう付き合ってるんでしょ?」
「違う。向こうは……なんにも知らない」
「それでも……」
「これからも言うつもりもないし。言えない相手なんだ」
「ハル君。まさか……不倫、とか?」
 亜子の問いに、弱く笑って首を振る。
 たぶんあの時のあの人と、俺はいま同じ表情をしているだろう。
 過去の恋の話をしたとき、俺の質問にあの人も弱い笑顔を見せていた。
 好きになってはいけない相手。いや、好きになるのは勝手だ。たとえ勝手に好きになったとしても、絶対に叶わない相手。
 自分の気持ちなんて、本当はとうの昔に自覚していた。
 恋人よりも、隣人と過ごす時間の方が遙かに楽しく感じることも、なにかと理由を見つけて訪ねていったことも、かつての恋の話を聞いて覚えた嫉妬も。
 認めるのが恐かった。だけど苦しくて、どうしようもなく苦しくて、そしてその苦しさの根源を認めることにした。
 あの人のことが――好きだ。
 とても好きだ。
 隣人の、男である斉藤さんに、俺は恋をしてしまった。
 兄のように慕う気持ちよりもっと強く、亜子に対する気持ちよりももっと深く、俺は斉藤さんを想っている。
 そして気持ちを認めてしまっても、苦しさは変らなかった。いっそ認める前よりも苦しさは増した。
 だけど、それでも、この想いを捨てることは出来なかった。
 傍にいたい。ずっと傍にいたい。それだけで満足しようと自分を納得させた。
 傍にいて、甘えて、自分の内に生まれる欲望にのたうちながら、それでも諦めることが出来ない。
 亜子に、その欲望をぶつけて紛らわせたことだってある。
 目の前にいる女を抱きながら、別の身体を想像し、あの人はどんなだろうと考え、想像の中で彼を陵辱した。
 壁の向こうの気配を窺いながら、頭の中で描かれる彼の様々な姿に、俺がどんな行為に及んでいたか。
 いつだって聞き耳を立て、帰って来るのを待ち、帰りが遅いとベランダから覗き、あの坂道を何度も往復したことだってある。
 彼の優しさに付け入るようにして甘え、俺の怪我を気遣う気持ちを利用した。
 頭が痛いと言えば、事故の後遺症なのではないかと心配する彼に、何でもないよといいながらも、わざと恩に着せるような態度をとった。本当は頭痛なんか事故の前から持っていたのに。
 情けなくて、自分が嫌になる。
 だけど恩を着せても、どんな手を使ってでも、彼が自分から離れていかないように、いつだって考えていた。
 今だって、隣で何をしているのか。どんなことを考えているのか、目の前に座って俺を睨んでいる彼女よりも気に掛かっているのだ。
 呆れられてはいないか。曖昧な態度をとる俺を、駄目なヤツだと思われてはいまいか。亜子と心底仲直りすればいいなんて思われていたら、哀しい。
 さっき斉藤さんの玄関先で泣き出した亜子の前で、俺だって声を上げて泣きたかった。二人はお似合いですなんて、あんまりだ。


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