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あの日たち
18

 大学からの帰り道、景色を眺めていてふと、彼を誘って花見でもしようかと思いついた。
 大学の側には川があり、その河川に沿って桜並木が続いている。
 駅前などには《桜祭り》の看板が掲げられているのが目に付くし、確か家の近所でも結構大きな催しがあったと記憶している。
 こういうのって、季節のものだし、いつでも見れるっていうものでもないから、行ってみたいなと思った。
 弘人さんとは部屋でしか会うことがなかったけど、こういう誘いなら応じてくれるかもしれない。
 隣人を下の名で呼ぶようになった。ほとんど毎日会っていて、ご飯だって一緒に食べる仲なんだから、と俺の方から提案した。
 俺のことは《ハル》でも《マサハル》でも構わないと言っているのに、彼はどうしても慣れないようで、俺を名字のまま呼ぶ。しつこく促すと、丁寧に《まさはる君》と呼ぶ。さんはい、って音頭を取って、やっと名前で呼んでもらえる。その時も遠慮しいしいなのがちょっと笑える。
 最初に俺の名前を《シンジ》と読んでしまった弘人さんにはどうしても違和感が残るらしい。
 俺の『カロチン』と一緒だねと笑うと、弘人さんも笑っている。俺もリコピン憶えるから、弘人さんも慣れて、とお願いしている。
 一つ目の内定ももらったことだし、そのお祝いに花見に行こうよと誘ったら、彼は笑って承諾してくれるだろう。
 十社以上受けた企業のうち、その一社から内定通知をもらったのが昨日のことだ。
 すぐにでも隣に報告に行きたかったが、ここ最近弘人さんは仕事が忙しいらしく、帰りが遅かった。随分遅くまで耳を澄ませて待っていたが、俺が寝るまで帰って来る気配がなかったから、諦めた。
 内定をくれた会社は小さな製薬会社だ。主に検査薬とジェネリックを扱っている。一応大手と言われる企業も受けてはいるが、そこは望み薄だ。それでもひとつ内定をもらえたことで、ほっと安心する。
 比較的歴史の浅い製薬会社は、特許期間の終了した薬剤を作り、売っている。安さが売りの後発薬品だが、すでに二十年以上前から飲まれている薬を安さだけで乗り換える患者は少ない。それに、保険制度の充実している日本において、とびきり高額な薬でもない限り、その個人負担は一割か三割だから、あまり懐に負担が掛かるという実感がない。
 すでに確立された市場に参入するのだから、かなりの売り込みと馬力が必要とされる。そこに面白さとやりがいを感じた。
 弘人さんも親身に相談に乗ってくれた。
 俺の遭った経験を存分に活かすことは、決して悪いことではないと助言してくれた。事故に遭い、目覚め、経験し、得たこと、思ったこと。それらが今こういった職種に就きたいと考えた経緯を真摯に伝えれば、きっと向こうにも伝わるはずだと励ましてくれた。
 その結果が春先早々の内定通知だ。
 早くそのことを知らせたく、お礼がしたくて昨日はずっと待っていたんだけど。
 朝になって、隣のドアが締まる音に、あ、と思った時にはもう弘人さんは出かけていて、俺も寝起きですぐに外に飛び出せなかった。
 早く内定が来たことを知らせたい。
 どうやって切り出そうか。
 きっと喜んでくれるだろう。お祝いを、と言ってくれるかもしれない。
 そしたら花見に誘おう。
 二人で桜を見て、花の下で乾杯をして。デートじゃないけどデートみたいに並んで歩いて。
 そんなことを考えながら、一人ニヤついて坂道を上っていく。
 弘人さんは相変わらず凄くやさしい。
 俺も相変わらずそんな弘人さんに甘えている。
 仕方がないなあと苦笑しながら、弘人さんの側に入り浸っている俺を、黙って受け入れてくれる。
 ずっと続けばいい。
 穏やかなこの時間がずっと続いていけばいい。
 今日はまだ、弘人さんの一番近くにいるのは俺だ。明日もきっと、そうでありたい。
 来週も、来月も、来年もずっと。



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