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あの日たち
19

 部屋に戻り、今日も遅いのかなと課題をこなしながら待っていたら、弘人さんは案外早くに帰って来た。
 着替えて一息ついた頃を見計らい、隣のインターホンを押す。
 ややあって、いつものようにゆっくりと玄関に近づく気配がし、ドアが開いた。
 いつもと変わらない、穏やかな笑顔が俺を出迎えてくれて、俺も笑い返す。
「おかえんなさい」
 訪ねていった側の俺がそう言うと、弘人さんは笑って「ただいま」と言った。
 お伺いも立てず、許可ももらわず、部屋へと通される。
 やはりゆっくりとリビングに向う背中に待ちきれずに「内定一つ、来た」と報告した。
 振り返った顔が満面の笑みを浮かべる。本当に嬉しそうに「そう。よかった」と言ってもらえて、俺の方も破顔した。
「小さい方のね、会社なんだけど」
「そんなこと関係ないよ。この時期に決まるなんて凄いことだよ」
「うん。正直ほっとしてる」
「凄いなあ。本当によかった。おめでとう。何かお祝いをしないとね」
 それを聞いて、昼間思いついたことを口にした。
「弘人さん、花見行かない?」
 俺の誘いに弘人さんが不思議そうに俺を見上げた。
「……花見?」
「そう。ほら、駅の向こう、今《桜祭り》やってるって。夜桜見てさ、そこで何か食べようよ。屋台も沢山出てるみたいだし」
「駅向こうの……ああ。そういえば、看板が出ていた」
 弘人さんが思案している。
 未だに足に不安を持つ彼は、人混みが苦手のようだ。
「散歩がてらさ。ライトアップもされてて綺麗らしいよ。……でも、帰ってきたばっかりで、疲れてる? 日曜まで待ってみる?」
 週末まで咲いているだろうし、とにかく約束を取り付けてしまいさえすれば、今日急いで行くこともないかと考え直した。
「そうね。折角だから行ってみようか。日曜日に天気がいいとも限らないしね」
「ほんと? すぐ行く?」
 弘人さんの返事に、犬のようにキャンキャン喜ぶ俺だった。子どもっぽい。だけど嬉しくて騒がずにはいられない。
「じゃあ、ちょっと着替えないと」
 帰宅してすでに着替えてはいるものの、弘人さん的には外へ出かけるには気兼ねな装いらしい。俺なんか短パンにビーサンでも平気だが、弘人さんはそうではない。
「待っていて」の言葉に素直に従って、いつのもソファに沈む。
 隣の寝室に消える姿を見送って、ふと、テーブルの下にある雑誌に目が止まった。
 買ってきたばかりだという感じの雑誌が新聞の下に置いてある。
 なんだろうと、何気なく手を伸ばした。まるで隠してあるような、不自然な重ね方に、思わず手が伸びたと言ったほうがいいかもしれない。
 雑誌の表紙に目を落とす。折り皺もついていない、開いた形跡もない真新しい雑誌は、それでも読むためにわざわざ買ってきたものだ。目的を持ってしか手に取ることのない雑誌。それを弘人さんが買ってきていた。
「なんでこんなの買ってきたの?」
 着替えを終え、出てきた弘人さんに聞く。《住宅情報誌》と書かれた雑誌を手に持ったまま。
「弘人さん、引っ越すの?」
 俺の手元を見た弘人さんは一瞬止まり、それから「ああ」と、いつもの笑顔を作った。
「なんとなく買ってみたんだよ。ほら、そろそろここ、更新時期だから」
 いつもと変わらず、いや、むしろいつもよりも明るい口調で話す声が、言い訳に聞こえた。
「本当、ただ買ってみただけだよ」
「何で急に?」
「急にってことでもないよ。でも、ほら、長年住んでいるし、他ってどうなのかなって、ちょっと気になったから」
 俺から雑誌を受け取ろうと伸ばしてきた腕を、じっと見たまま動かなかった。
「引っ越すの?」
 繰り返す俺の問いに、弘人さんはっきりとした返事をしない。
「引っ越したいの?」
「……花見。出かけないの?」
「なんで?」
「別に、本当に意味はないよ」
「俺が迷惑だから?」
「そんなことないよ」
「毎日来て、うざかった?」
「そんなことはない」
「じゃあなんで?」
 俺から雑誌を受け取ると、弘人さんは元あった場所に置いた。もう隠す必要がなくなったそれを、新聞の上に重ねる。
「いつ?」
「だから、決めたわけじゃないよ。ああ、そうだ。このソファもらってくれる? ほら、すごく気に入ってもらえているみたいだから」
 決めていないと言いながら、俺にソファをもらってくれと言う。
「やっぱり引っ越すつもりなんじゃないか」
「いや、そうじゃなくて」
「そうなんだろう?」
「花見、行こうよ」
「前から考えてた?」
「ああ。うん、そうね。ほら、ここ長いから」
「なんで?」
 願ったのは側にいることだけだ。
 隣にいて、一緒にご飯を食べて、たまに花見に誘って。
 そうやってただ隣にいたいだけなのに。
「なんか俺、気に障るようなこと、した?」
「そうじゃないよ」
 なのに、それさえも出来なくなってしまったら、俺はどうしたらいい?
「どの辺に……?」
 いやだ。
「もう決めてあるの?」
 いやだ。俺を置いていかないで。
「だったら、俺も引っ越す。いい?」


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