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雨が止むまで〜意地っ張りの恋〜
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 そわそわと落ち着きなく部屋で待ち、開け放してある窓から外の音を聞きつけ、駆け寄った。
 見下ろすと、克也がちょうど自転車から降りるところだった。ママチャリに跨る姿がヤンキーっぽい。
 建物の中に入ってくるのを確かめてからドアまで走り、チャイムが鳴るのを待っていた。
 ピンポン、と鳴ってから、ゆっくり三つ数えて内鍵を開けた。待ち構えていたと気取られるのは嫌だけど、どうしても部屋の中で待っていられない。
 ドアを開けると、克也が立っていた。
 ポケットに手を突っ込んだ長身が、智を見下ろしてくる。口の端を少しだけ上げ、「おう」と、低い声で挨拶をして、それから入ってきた。
 克也が智の部屋を訪れるのは、今日で三回目だ。
 母親から荷物を預かってやってきた克也は、その日、初めて智の部屋を訪れた。克也を怒らせ、二度と来るなと追い出されてから半年以上経った、春の始めのことだった。
 母に持たされた大量の食材を一緒に冷蔵庫に収め、久しぶりに二人でビールを飲み、克也は帰っていった。
 二回目は次の週の日曜日だった。自転車買うから付き合えと言われ、智の知っている店に連れて行った。自転車屋は智の家に近かったから、購入したばかりの自転車に乗って、二人で帰ってきた。
 そして三回目の今日は、それから一ヶ月が経っていた。その間、智は克也の部屋を一度も訪れていはいない。
 平日は二人とも働いており、克也は日曜も用事がある。定時制の高校に通っている克也は日曜も補習授業があることが多かったし、工務店での仕事が入ることもある。
 それに、訪ねていく口実がなかった。
 前は用事がなくても訪ねていけた。自宅が遠かったこともあったし、電車がある時間でもなにも考えずに訪ねていたのが、今はできない。
「それにしても、お前もまた相変わらず突発的だな」
「だって食べたかったんだもんよ。かっちゃんだって好きだろ、蟹」
 だからこうして口実を作り、克也を部屋に呼ぶしかないのだ。
「そりゃ好きだけどよ」
「安かったんだよ。それに一人じゃやっぱりつまんないだろ?」
 冷蔵庫から出してきた、箱にぎっしり詰まった蟹を見て、克也が「おお」と嬉しそうな声を上げた。
「蟹しゃぶしようぜ」
「うん。で、蟹しゃぶってどうやんの?」
 材料は用意したのだから、あとは克也任せだ。
「うーん。俺もよく知らねえけど。土鍋とかいるんじゃねぇか? あるか?」
「ない」
「カセットコンロは?」
「ないよ?」
 蟹から智に視線を移し、「お前なあ」と、克也が言うのに「へへ」と笑って誤魔化す。
「鍋にお湯沸かして、そん中にしゃぶしゃぶ、って入ればいいんじゃね?」
「うーん。なんか趣がねえなあ」
 なにかだしのようなものを入れるんじゃないかという話になり、首を傾げる。そういえば、実家にいるときは昆布が入っていた気がする。
「昆布なんかあるのか? ここに」
 もちろん、ない。
 一人暮らしを始めたばかりの智にはなんの知恵もない。出されたものを黙って食べ、買った物をせいぜい温めて食べるくらいしかしてこなかった。
「ちょっと買い出しに行ってくるわ」
 克也が気軽に言った。
「どうせなら旨いの食いたいしな」
 カセットコンロもついでに買うと言ってきた。じゃあ金を出すよという智の提案をあっさりと却下され、一緒に行こうとするのも断られた。
「いいって。お前蟹買ったんだからよ。つか、相変わらず計画性ねえな。ま、しょうがねえか」
 何かをしようとすると、二度手間三度手間になるのは昔からだ。親にもよく叱られていた。そしてその尻ぬぐいを克也にさせてしまうのも変わらない。
 買い出しから帰ってきた克也は、だし昆布とコンロと一緒に、野菜も購入してきた。
「やっぱ蟹だけじゃ、な」
 そっちで待ってろ、と言われて素直に居間にしている部屋で待機することになる。
 こういうときに役に立たないのは自覚している。運べと言われたものをテーブルに運び、用意しておいたビールを冷蔵庫から出すのがせいぜいだが、それにも慣れている克也は、もちろん何も言わない。
 卓上コンロに湯を沸かし、沸騰する寸前で昆布を取りだし、醤油と酒を少量投入する手をじっと見つめる。「おら、食おうぜ」という克也の声で、宴会が始まった。
 しばらくは無言で蟹を貪る。なるほど、湯を沸かしただけではこんな味にはならなかっただろう、だしのきいた蟹は旨かった。
「かっちゃん、よくだし取るなんて知ってたね」
「そりゃあ、職場で宴会なんかあれば、下っ端がやらされるからな。周り中鍋将軍でよ」
 早くから働いていた克也はそう言って、蟹にむしゃぶりついている。二本纏めてしゃぶしゃぶし、顔を上に向けて大きく開けた口にポーションを落とし込み、満面の笑みを浮かべていた。
 その顔を見て、大枚はたいた甲斐があったと、智も満足した。
 働き始めたばかりで、すべてを自分で賄う生活は苦しかった。学生時代もバイトはしていたが、家賃はいらなかったし、それこそ文無しでもなんとかなった。家に帰る金がなくなっても、克也の部屋があったから。ここからなら歩いていける、という計算があったから、暢気に遊んでいられたのだ。
 だが、自分で家賃を支払い、ガス電気水道、その他の生活のすべてを自分で賄う今は、そんな甘えたことは言っていられなかった。今日買った蟹だって、智の食費の十日分はする。給料日までの生活は苦しくなったが、これ以外の方法が思いつかなかった。
 こういうことでしか、人の気を引くやり方を知らない。それをいつも叱られていた。「馬鹿だ」と呆れられ、結果克也に迷惑を掛けていたのだが、今は全部自分に降りかかってくるのだ。

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