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雨が止むまで〜意地っ張りの恋〜
10

 繰り返し夢を見続けたが、目を覚ましたらなにひとつ覚えていなかった。体が重く、頭の隅のほうが酷く痛む。
 動きたくないと訴える体を無理矢理起こし、ゆっくりと顔を撫でた。ほんの数十秒じっとしていたつもりが、気が付くと五分も経っていた。浅い夢がまだ続いているようで、意識がはっきりしない。
 のろのろとベッドから這い出し、出掛ける支度をする。とりあえず行かなくてはならない。行ってもどうせ昨日の繰り返しだろうが仕方がない。たいした仕事を任されているわけではないが、仕事は仕事だ。
 腹が減ったような気がして、冷蔵庫を開けたが、何も入ってはいなかった。賞味期限切れの牛乳と、昨日買ってきたビールだけだ。
 部屋の中も荒れている。帰ってきて服を脱ぎ、洗濯機に放り込み、それが入り切らなくなると、そのまま部屋の隅に積み上げていた。書類も郵便物も持って来たまま散乱している。
 克也の古いアパートを思い出す。雑然としていたが、こんなふうに荒れてはいなかった。冷蔵庫にも何かしら食料が入っていて、それを食べ尽くしてよく叱られた。
「ホント、だらしねえなあ」
 ゴミ屋敷のような部屋を見回し苦笑する。
 頑張っていたつもりが、結局はまるで変わっていない。仕事も半端なのに、生活すらまともにできていない自分を、どうしようもないと思う。
 重い体を引きずって、なんとか会社に行き、業務に就いた。印刷所から届いたチラシやフリーペーパーの見本紙のチェックをし、配送の確認をし、最終の準備を整えていく。
 先行して流れているテレビCMの評判も上々で、すでに第二弾の話が持ち上がっていた。智たちの手掛けた広告のほうも、大きなトラブルもなく、滞りなく進んでいた。
 夕方になり、宣伝部全体でささやかな打ち上げをしようという声が上がっていた。
 本当の戦いは発売後から始まるのだが、宣伝部のほうでは一段落ついている。皆、一仕事終えたという、ほっとした雰囲気が漂っていた。
 定時近くにはほぼ全員の仕事が終わり、職場近くの店に連れだって行く。広報課も宣伝部の一部だったから、知らされていたワインバーに智も出向いた。地下にある店は、智の職場の社員で貸し切られ、ほの暗い店内は人でいっぱいになっていた。
「お疲れさん」と、宣伝部の部長が短い挨拶をし、ささやかな打ち上げが始まった。
 ここ数日の激務から解放され、大きなトラブルにも見舞われなかった安堵から、和やかで楽しい宴会の空気だった。宮島も今日は機嫌がいいらしく、奥の席で自分の同期と大声で話していた。
 智もカウンター近くで立ったまま、同期や先輩たちとこれまでの苦労を労いあっていた。取りあえずの大きな山は越えた。週末にゆっくりと体を休め、それ以降のことはまたそのあとで考えよう。
 和やかな雰囲気に浸り、そんなことを思っていた時だった。
「長岡ぁっ!」
 酔いも手伝って、箍の外れたような大声で呼ばれ、振り返ると、目元を真っ赤に爛れさせた宮島が、座った目をしてこちらを睨んでいた。ソファにどっかりと沈み、横柄な態度でこっちに来いと手招きをしている。
 笑顔が途端に強張るが、仕方なくそこへと足を運んだ。
「宮島さん、お疲れ様でした」
 差し出されたコップにビールを注ぎながら挨拶をする。宮島のほうは何も言わずに注がれたビールを煽り、タン、と乱暴にテーブルに置いた。もう一度ビールを注ぐ。手が震え、カチカチとガラスが鳴るのを、宮島がドロリと濁った目をして睨み付けていた。
「ホント疲れたよ。今までいろんなプロジェクトをやってきたけど、今回のが一番大変だった」
 体を沈め、ソファの背もたれに大きく広げた腕の両方を掛けながら、宮島が言った。
「どうも。お世話を掛けました」
「本当だよ。マジで。もうさ、一時期はキレそうになったよ、俺も。ホントマジだぜ」
 なあ、と、同意を求めるようにして大声で叫んでいる。絡まれた同僚は、苦笑しながら「まあ無事に終わったんだから、明るくいこうぜ」と、宥めていた。
「冗談じゃねえよ。一回で済む話が何回も何回もやり直しさせられて。なんで俺がこんな苦労しなきゃならないんだよ。なあ、長岡」
 名前を叫ばれ、酒で弛緩しかけていた体がビクリと硬直する。
「お前さあ、嫌々仕事やってんのが見え見えなんだよ」
「そんなことは……ありません」
 心外な言葉に思わず反射で答えたが、宮島も後へは引かなかった。
「マーケティング部を希望したのにこっちに回されて、腐ってたんだろ」
「そんなことは……」
 確かに宮島の言うとおり、入社当時はマーケティングや、商品の企画部門を希望していた。大学で専攻していたのがそれだったから、そっちの分野に進みたかったのは確かだ。広報課に回されて、多少の落胆はあったものの、それでやる気が削がれたなんてことはなかった。
 ふと、思い出すことがあった。
 入社して今の宣伝部広報課に配属が決まり、初めて出社した朝、新入社員として紹介され、智はそこで挨拶をした。前の晩から考えていた挨拶の言葉を、緊張しながら発したものだ。希望していた部署ではなかったが、一生懸命に働き、いずれ希望のところへ行きたいと、そんなようなことを言ったのを覚えている。
 希望通りに配属できる者などごく少数だったし、当たり前だとも思っていた。周りにいた他の新入社員も、自分と似たような挨拶をしていたし、上司たちもそれについて反応したということもなかったから気にもしていなかった。
 だが、黙っていただけで、宮島はそれが気に食わなかったのか。
 確かに智自身あの頃は気負っていた。頑張らなければと思い決め、やる気をみせようとはりきり、自分が失言したことなど考えにも及ばなかった。

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