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雨が止むまで〜意地っ張りの恋〜 9 |
いつものように最終近くの電車で帰り、駅を出ると、また雨が降っていた。 自転車置き場に行きかけ、ふと、足が別の方向へ向く。 霧雨のような雨は降っているという感覚もなく、それでも少しずつ体を重くしていた。途中のコンビニでビニール傘とビールを買って、駅近の繁華街を抜けた。 見覚えのあるアパートの前に立ち、窓を見上げる。二階にある角部屋には明かりが灯っていた。帰ってきているらしい。 目を凝らしてみるが、中にいる人の陰はここからでは見えない。克也の仕事は朝が早い。こんな時間に訪れたら、きっと迷惑だろう。 前はそんなことはお構いなしに押しかけていた。疲れているんだと訴えるのを無視し、無理矢理チャーハンを作らせたこともあった。 自分が働き始めて、なにもできなくなるほど疲れて帰り、余計な作業をしなければならないつらさを、はじめて思い知った。 本当に自分勝手で、人の迷惑など顧みない、どうしようもなく駄目な人間だ。 努力して、少しはましになったような気もするが、まだまだ克也には及ばない。明日職場に行くことすら、苦痛で仕方がないのだ。 紛失したチラシは結局、夕方になって、ボツになった原案や、試し刷りされた紙が突っ込んである場所から見つかった。俺はこんな場所に置いていないと、まるで智がわざとやったようなことまで言われ、唇を噛み、黙って頭を下げた。 なぜ自分にだけにこうもあからさまな悪意をぶつけてくるのか。相性がよくないというのは初めに感じてはいた。だがここまで嫌われる原因が分からない。意味のない仕事をさせ、大事な仕事は覚えさせない。監視しているのかと疑うほど、細かいことを指摘し、責め、そしてこちらからの問いかけには無視をするのだ。 今日も帰り際に総務に行ってボールペン一本を取ってこいと命ぜられ、のろのろと廊下を歩いていた。 他の部署ではみな忙しそうに働いている。同期入社した別の部署の同僚が、誰かと話しているのが見えた。生き生きと語る表情は自信に満ちていて、楽しそうだった。 これ以上頑張るのは正直きつい。 そんな愚痴を言ったら、克也はなんて言うだろうか。「甘えるな」と叱るだろうか。それともやっぱりなと、鼻で笑うんだろうか。 だけど顔が見たい。叱られても呆れられてもいい。顔を見て、少しだけでも声が聞ければ、明日も頑張れるような気がする。 外は雨が降っている。ほんの少し、雨宿りをさせてくれないだろうか。そうしたら、合羽を着て、自転車に乗って自分の部屋に帰り、明日もまた仕事に行くから。 階段を上がりかけ、思いついて携帯を取り出した。いきなり訪ねていって、迷惑な顔をされたらへこんでしまう。 克也の番号を呼び出し、耳に当てる。三回目のコールで出てくれた。部屋で寛いでいるらしく、周りに人のいる気配も感じない。ほっとした。 「あ、かっちゃん?」 『おう、どうした』 「うん。……あのさ、今仕事の帰りなんだけどさ」 『なんだ。相変わらず遅ぇな』 「うん。新商品の発売が来週に迫ってて、それで毎日大変なんだよ」 『ふうん』 前と変わらない気安い声を聞いて、気持ちが少し軽くなった。 「あの、あのさ。そんでな。ほら、外、雨が降ってんじゃん?」 『ああ。そうだな』 「俺、疲れててさあ。あのさ、帰る前にちょっとだけ寄ってもいいか?」 電話の向こうがしーんとしている。返事を聞く前に、急いでたたみかけた。 「や、ちょっとだけ、ほんと、ちょっと雨宿りっていうか。ほら、かっちゃんち、駅からすぐだろ? 俺も明日仕事だし、マジですぐ帰るから。それにちょっと話したいこともあるし……」 『智、お前今どこだ?』 「あ、えーと」 アパートの前まで来ているなんて言えず、駅を出たところだと嘘を吐いた。 「ビール買っていくから」 『智。悪ぃ。こっち、今出先なんだよ』 雨が、傘を伝い、足先に落ちた。 「あ……そうなんだ」 『ちょっと飲んでてよ。まだ家じゃねえんだよ』 傘を握っている手が痺れ、指先が冷たい。 「……そっか。じゃあ、仕方ないね」 灯りの灯っている窓を見上げたら、雨が顔にかかり、目の前がぼやけた。 『悪ぃな』 見上げていた窓のカーテンが開き、大きな影が映る。 「そうか。家にいないんじゃ……しょうがないな」 『ああ』 「じゃあ、また。あんまり飲み過ぎんなよ」 『そうだな。お前も明日仕事だろ? 寄り道してないで早く寝ちまえ』 「うん」 窓から覗く影は、雨の様子を確かめているのか、上の方を向いていた。 「じゃあな」と、電話を切り、その影を見上げていた。 やがて影が消え、カーテンが閉まる。 片手に傘、片手にビールの袋をぶら下げて、元来た道を戻った。霧雨だった雨は、いつの間にか強くなり、足元がビチャビチャに濡れていた。 駅に戻り、とってきた自転車に跨った。一足一足漕ぎながら、雨の道を走っていく。 迷惑だったのだ。 克也は智を許してはいない。 この近くに越してきたのも、本当は迷惑だったのだ。 就職が決まり、初任給をもらい、約束通りビールとハムを贈った。克也はありがとうと言い、そして就職おめでとうと言ってくれた。その後智の部屋に来てくれた。二人で前のように笑ってビールを飲んだ。 許してくれたのだと思った。時間が経ち、智自身が努力をすれば、元のようになれると思っていた。 だが、それは自分だけの浅はかな願望だったのだ。 窓の明かりと、映る影と、あの声が教えてくれた。 元には二度と戻れない。 漕ぐ足が重くなってきた。だけど漕がなくてはいけない。疲れたといって、休む場所はもう、ないのだから。 |
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