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雨が止むまで〜意地っ張りの恋〜
8


「長岡ぁっ!」
 名前を呼ばれ、緩慢な動作で声のする方角に顔を向けた。
「呼んだらすぐに来いっ」
 苛ついた声に、わざとのようにゆっくりとした動作で腰を上げ、声のほうに歩いて行く。
 反抗しているわけではない。気持ちでは早く動かなくてはと思うのだが、体がいうことをきかなかった。のろのろと歩いていても、心臓はバクバクと煩いぐらいに跳ね、一歩一歩出す足が、ガクガクと震えている。
 最近宮島に呼ばれると、こうなってしまう。今度は何を言われるのか。どんな叱責を受け、どんな嫌みを言われるのか。
 呼びつけられて、褒められたことなど一度もない。顔を合わせれば、怒号か嫌みが飛んでくる。声を聴いただけで、体が拒否反応を起こし、ますます事態が悪化していく。
「お前社内報の進行、どうなってる?」
 側までいった智に、剣呑な表情を崩さないままの宮崎が聞いてきた。
「あ、えっと、そっちのほうはまだ……」
 今は社全体で新商品の発売に向けて動いている。もちろん既存の商品の販売業務と平行して行ってはいるが、最優先すべきは新商品のことで、これがある程度先が見えるまではという空気がすでに暗黙の了解だった。
 社内報に関しても同じだった。載せる記事は毎回だいたい決まっていたし、その手はず自体は整っている。あとは最新情報の調整だが、それは今回の新商品情報になっているから、それこそ発売を過ぎないと動けない状態だった。
「お前、何でも後回しにする癖どうにかしろよ」
 智の報告を聞く前に宮島が遮り、いつものように糾弾してくる。
「仕事ってのはな、それひとつばっかりやってりゃいいってもんじゃないんだよ」
 それは智だって重々分かっている。だが、反論することができずに黙って宮島の叱責を受けるしかなかった。
 社内報については、宮島以外の先輩にレクチャーを受けていた。まだ今の仕事が忙しくなる前に形を覚えておきたい智に、なんだかんだと面倒がって放り投げていたのは、目の前にいる宮島だった。
 そうでなくてもどうでもいい雑用に走り回されながら、なんとか時間を作り、人を捕まえては教わり、自力でやってきたのだ。
 忘れていたようになにも言わなかったのが、今になって急にそんなことを言ってくるのは、単に智を責める材料を探してのことではないかと勘ぐりたくなった。
「それからチラシのほう、どうなってるんだ。最終校のチェックがまだだろうが。今PR社の方から連絡が来て、もう印刷始めないと間に合わないって言ってきてるぞ」
「え」
 やり直しを命じられたチラシは、最終案が通り、そのあとは滞りなく進められていた。ゲラをチェックし、その最終校は先週宮島に渡したはずだった。遠慮がちにそれを訴えると、宮島の顔がさっと強ばった。
「受け取ってないぞ、俺は」
「そんな……」
 チラシの校了紙は、例によって取りに行けと命じられた。言われるまま前と同じように印刷所に出向き、それを宮島に渡した。受け取った宮島は、ああ、といつものように労いの言葉もなく、あとで見ると言って自分のデスクの脇に置いたのだ。
 広報課が抱える仕事はチラシだけではなく、主婦向けの雑誌に載せる広告と、駅前で配るフリーペーパーの巻末にも商品を載せることが決定している。次々と上がってくるゲラや校正指示などで戦場のようになっている中、チラシの分が抜け落ちてしまったらしい。
 発売は来週の頭で、それと同時に各地のスーパーでチラシが配られる。今週中には印刷ができ上がり、遅くとも週末には各店舗に配送されていなくてはならない。
 今日は木曜だ。もう時間がない。
 紙ゴミの山になっているデスクを漁るが、智の渡した原稿は見つからなかった。唇に手を当て、思案げに眉を寄せている宮島の顔色は、はっきりと青ざめていた。
「PR社に電話して、もう一度持ってきてもらいましょう」
 いつまでも黙っているわけにもいかず、口を出した智を、宮島が睨んできた。どこかに紛れているのであれば、探せば出てくるはずだが、今はその時間がない。原稿を失くした事実は、きっと宮島にとっては言いたくない失態だろう。だが、ここでぐずぐずしていては、印刷自体が間に合わなくなり、そっちの責任の方が重大だ。
「取りに行けと言われれば行ってもいいですが、その時間のロスも惜しいです」
 嫌みで言ったわけではなかったが、宮島の形相が明らかに変わり、しまったと思い、体が硬直した。
 また何か言われるかと思ったが、宮島は何も言わず、電話を取っている。目であっちへ行けと合図され、一礼してその場から離れた。宮島は受話器を隠すようにして話をしている。智は自分のデスクに戻り、仕事を続けた。
 ほどなくしてPR社がやってきて、無事原稿を受け取り、その場で印刷開始の連絡をした。宮島の機嫌は始終悪く、今日でなくても済むような、細々とした仕事を言い渡された。


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