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雨が止むまで〜意地っ張りの恋〜
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 喧噪の中で、ぼんやりと思考を巡らせている智の目の前で、宮島が尚もがなり立てている。覚えが悪いとか、態度が不遜だとか、酔いも手伝ってか、その言葉は直裁で辛辣だった。
 暗い店内で、ダウンライトに照らされた宮島の顔は、酔いと疲れと智に対する悪意とで、醜悪なまでに歪んでいる。
 その顔を眺めながら、なんだか笑えてきた。
 なんだ。俺は初めから失敗していたんじゃないか。
「……なんだ? その顔は。なに笑ってんだよ」
 どこを見ているのか分からないような目をして、宮島が低い声を出した。
「いえ。別に」
 最初に間違ってしまったのなら仕方がない。三ヶ月近く一緒に仕事をしていれば、智だって宮島の粘着質な性格を理解できている。どんなに弁明をしても、この男の執念は変わらない。
 諦めと開き直りのような感情が智を支配していた。
「俺を馬鹿にしてんのか?」
「してませんよ。そんな風に見えますか? でもそう見えるんなら仕方がないですね」
 たぶん自分も相当酔っているのかもしれないと、頭の隅で思ったが、もうどうでもよかった。
 ビシャ、と水が弾け、気が付くと顔が濡れていた。おお、とどよめきが聞こえて、初めて自分がビールを掛けられたのだと理解した。
「お前ふざけんなよ」
 誰かがおしぼりを差し出してくれ、無言で顔を拭く。
「なんだよその態度は」
 喚いている宮島を無視して立ち上がり、取りあえず一礼してその場を後にした。
「おいっ!」
 追いかけてこようとしているのか、テーブルがガタつく音が聞こえ、同時に誰かが「やめろ」と諫めている声もした。
 道が割れるようにして智の行く手が開いていく。まるで花道を歩いているようだった。
 店のドアを開け、地上に続く階段を緩慢な足取りで昇った。ぽっかりと口を開けたような四角い空間の上から、夜の光が降ってきて、ビールの沁みた目には痛かった。
 雨は止んでいた。そういえば、ここ最近ずっと雨が降っていたなと、ぼんやり思った。
 月曜日からどうしよう。
 酔ってつっかかってこられたとはいえ、相手は上司だ。なにか処分が下るだろうか。どちらにしろ、月曜日からの宮島の態度が想像できて、酷いことになりそうだと思うと、なぜだかまた笑えてきた。
 月曜日になってから考えよう。とにかく眠りたい。電車に乗って、自転車を漕ぎ、自分の部屋で体を休めよう。後のことは全部それからだ。どうにかなるだろうし、どうにかしなくちゃいけない。誰ももう、助けてはくれないのだから。
 地上に出たところで突然肩を掴まれ、思わずたたらを踏んだ。階段から落ちそうになるのを辛うじて堪え振り向くと、宮島が立っていた。
「逃げんのかよ」
 真っ赤に目を充血させ、恐ろしいほどの形相で睨んでくる。
「……勘弁してくださいよ」
 本当に勘弁してくれという気持ちで掴んでいる手を振りほどこうとするが、執拗に離れない。
「ふざけんなよ」
「ふざけてないですから」
「お前、俺のことを馬鹿にしてんだろ」
「してませんって」
「してるんだってっ!」 
 強い力で揺さぶられ、体がグラグラと揺れた。
「なにかっつうと俺を通り越して宣伝部のほうに相談しにいくじゃないか」
「そんな……」
「どうせ上の連中に取り入りたいんだろ、分かってんだよ!」
 完全な言いがかりだ。
 宣伝部に教えを乞いにいったのは、目の前にいる宮島が、それを放棄していたからだ。仕事を教えてもらえず、できないと罵られるだけの宮島がいるから、他の人に聞くしかなかったのだ。
「見下したような目ぇして人を見やがって」
「見てませんって」
「お前見てると腹立つんだよ。イラついてしょうがねえんだよっ」
 とうとう本音が出たのか、宮島は腹の底から智のことが憎いと言い放った。
 揺らされながら、もうどうしようもないのだと、その顔を見つめていた。植え付けられた憎しみは、どんなことがあっても拭い去れない。
 克也が智を許さないのと同じように。
「その顔が腹立つって言ってんだよっ!」
 両腕で肩を掴まれ、前後に強く揺さぶられ、膝が折れる。階段の下から人が駆け上がってきて、宮島の背中を羽交い締めにするようにして引き剥がそうとするが、容易に腕は離れない。
「止めろ、ほら、危ないって」
「うるせえ!」
 智から引き剥がそうと、後ろの人が左右に宮島を揺すったとき、突然宮島の腕が離れた。
 誰かの悲鳴が聞えた。
 動きはゆっくりで、落ちていく自分も、周りの光景もスローモーションのように見えた。止まったような時間の中で、自分の体だけがゆっくりと、重力にまかせて落ちていく。
 あ、と思った。止まらなきゃ、とも思った。落ちていく自分を、階段の上から見たような気がした。
 一年前に見た光景を、繰り返し見ている。
 ああ、また堕ちていく。
 そのあとのことは、なにも覚えていない。


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