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雨が止むまで〜意地っ張りの恋〜
12


 目が覚めたのは病院のベッドの上だった。
 母親の顔が真っ先に目に入り、ああ、落ちちゃったんだっけと思いだした。宮島と揉み合いになり、店の階段から落ちたことははっきりと記憶しているが、そのあとのことは、まるで覚えていなかった。
 周りを見ようと首を回し、痛みがないことを確かめる。動かす手足も何ともない。
「大丈夫?」
 心配そうに聞いてくる母に、「なんともないみたい」と、答えると、安心したように笑い、溜息を吐かれた。
 病室が明るい。人工ではない部屋の明るさに、今は何時なんだろうと不思議に思った。
「あれ? 今何時? ってか、今日何曜日?」
「土曜よ。二時ちょっと過ぎたところ」
「えっ」
「あんたずっと寝てたのよ。叩いても呼びかけても起きないって、一時期大騒ぎになったんだからね」
 階段から転落し、救急車で運ばれた智は、そのままずっと眠り続けていたらしい。頭を強く打ったのかと検査されたが、これといった異常は見つからず、どうやら爆睡しているらしいという医者の見解だった。
 目が覚めたという知らせを受け、医師がやってきて、いろいろと調べられ、問診を受けた。
 記憶も状況もちゃんと把握しており、意識もはっきりしている。多少頭痛がしたが、それは長時間睡眠を取りすぎたためだろうと言われた。骨折も内臓の損傷も見られず、おでこにほんの少しの擦り傷が残ったが、あとは肩に軽い打撲の痛みがあるだけだった。
 大事をとってもう一日病院に泊るか、来週もう一度頭の検査をするかと聞かれ、家に帰ることにした。睡眠を十分に取ったから、大分すっきりしていたし、休むのならやはり自分の家に帰りたい。
 運ばれてきたときに着せられたらしい病院のパジャマを脱ぐ。着てきたスーツはビール臭いだろうが、それしかないのだから仕方がない。そう思い、「俺のスーツは?」と聞くと「ちょっと待ってて。もうすぐかっちゃんが着替えを持って来てくれるから」と母が答えた。
「かっちゃん、来るの?」
「来てたわよ。昨日の夜から」
 眠り続けている智を見舞い、いつ目覚めるか分からないからここを離れられない母親に代わって、着替えを取りに行っているらしい。
「それよりあんた、ちょっと痩せてない? ご飯ちゃんと食べてないでしょ」
「ああ……」
 ここしばらくは激務で食べる時間がなかったのだと言い訳をした。正直宮島の嫌がらせに参っていて、食欲がなかったこともある。
「あんた、会社でなにがあったの?」
 病院に運ばれ、知らせを受けて飛んできた母に、付き添ってきた会社の人が説明をしたと言ってきた。打ち上げでちょっとした言い争いになり、弾みで階段から落ちたのだと説明され、頭を下げられたのだという。名前を聞くと、それは宣伝部の方の同僚で、宮島ではなかった。
「うん。ちょっと意見の食い違いっていうか、凄く忙しかったからさ、みんな酔ってて。たいしたことじゃなかったんだ」
 心配そうに顔を覗いてくる親に、笑顔で大丈夫だと言う。
「そういえば寝っぱなしで何も食ってないから、すげえ腹減った」
 智のその言葉に、安心したように母は笑い、じゃあ帰りにどこかで食べて行こうかと提案してきた。
 そろそろ来るはずだからと言われ、病室で大人しく待つことにする。その間に会社に連絡をした。土曜日だったが、明けて月曜には新発売が迫っていたから出勤している者も多く、昨日の騒ぎを皆知っていた。
 取りあえず経過を伝え、迷惑、心配を掛けたことを詫びた。
月曜に出社できるなら、人事が話を聞きたいらしいと言われ、分かりましたと返事をした。
 母親は智の隣で会話を聞いていて、しきりに何があったのかを知りたがった。心配げな顔つきに、申し訳ないなと思いながら、笑って大したことじゃないと繰り返した。
 仕事を辞めることになるかもしれないな、と漠然と思ったが、今それを言って母を心配させ、説明をすることが億劫だった。
 ずっと雨続きで灰色だった空模様はすっかり消え、これから始まる夏を象徴するような入道雲が窓から見えた。
 やがて克也が現れた。
 眉間に皺を寄せ、ぬう、と屈むようにしながら部屋に入った克也は、ベッドに座っている智を認めると、眉間に力を入れたまま、智を睨んできた。
「かっちゃん、ありがとうね」
 誰よりも先に声を発した母が、克也から紙袋を受け取り、それを智に渡してくる。
「……部屋、凄いことになってただろ?」
「まあな」
 智の声に、克也は短く答え、何かを確かめるようにまた見つめてきた。
 渡された服に着替え、ナースセンターに挨拶をし、会計を済ませて病院を後にした。
「智がお腹空いたって。どっか寄っていこうと思うんだけど、かっちゃんも付き合ってよ」
 母が気軽に誘い、克也も素直についてきた。
 病院から駅へ通じる道にある、ファミリーレストランに三人で入っていく。安心した母親は猛烈な食欲を見せ、ハンバーグ定食を頼み、克也はコーヒーを飲んでいた。腹が減ったと言ってはみたものの、食欲は湧かず、智はスパゲティを無理矢理に押し込んだ。
 三人でてんでバラバラな食事をする間、しゃべっているのは母だけだった。足元がおぼつかなくなるほど酒を飲んだことをまず叱られ、どんな生活をしているのかということを問い詰められる。
 聞かれたことに適当に答えながら、チビチビとスパゲティをつつく間、克也は無言でコーヒーを飲んでいた。克也が寡黙なのはいつものことだったから、母は気にならないようだった。
「あんたもほんとさ、もうちょっとしっかりしないと駄目よ」
 心配したんだからと睨まれて、首をすくうようにして頷く。母にとってはいつまでたっても頼りない息子で、しっかりしていないのは事実だったから、黙って言われるままにしていた。

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