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雨が止むまで〜意地っ張りの恋〜
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「ご迷惑ご心配をおかけしまして……」
「なに言ってんだ?」
 取りあえず気まずい雰囲気から逃れようと言ってみたが、眉間に皺を寄せたままの克也にすぐさま切り返されてしまった。今まで散々迷惑も心配も掛けまくりで、今さらなにを言っているのかと自分でも思い、笑ってしまった。
「怪我は大丈夫なのか?」
 笑っている智を観察するように見ていた克也が口を開いた。
「ああ。うん。全然平気みたい。酔ってたからあれかな、余計な力が抜けてたのがよかったのかな」
 実際どこもなんともない。おでこの傷は触れば少しヒリヒリするが、あの高さから落ちたことを考えれば、本当にこれぐらいで済んだことが不思議なくらいだった。
「何があった?」
 痛みを確かめるように傷の辺りを触りながら返事をする智に、克也がまた聞いてくる。真剣な顔をしている克也に、笑った顔のまま「なにもないよ」と答えた。
「言い争いになったんだろ」
「……あー、みんな酔ってたから。ほんと、なんにもない」
「んなはずねえだろうが」
「本当だって」
 母と同じように問い詰められるが、答えようがない。言えば愚痴になるし、言いたくはなかった。のらりくらりとはぐらかす智を、剣呑な表情のまま克也が見つめてくる。
「……一昨日、そのことを話したかったんじゃないか?」
 貼り付けたような笑顔のまま、克也を見つめ返す。相変わらず眉間に力が入っているが、その瞳の奥に、後悔のような色が浮かんでいた。
「あんとき……なんか言いたくて電話してきたんだろう」
 話を聞いてやればよかったと、克也が後悔している。そんな表情が読み取れて、嬉しいと思うと同時に、今さら、とも思った。
「違うよ。ほら、雨だったからちょっと面倒臭くなっただけ」
「話したいことがあるって言ってたじゃねえか」
「ないよ。そう言ったら上げてもらえるかなって思っただけ。本当、ちょっと顔が見たかっただけだよ」
 笑って返事をしながら、本当にそれだけだったのかと自分に問いかけてみる。顔を見て、愚痴を言い、甘え、そのあとどうするつもりだったのか。
 答えは簡単に見つかった。感情の底に見える仄暗い思惑は、とても単純な甘えた願望だ。
 そんな浅はかな思惑を、克也は感じ取ったのかもしれない。逃げてくるな、自分でなんとかしろと、そういう意味だったのかもしれない。
「……かっちゃんは、凄いよな」
 克也だって社会に出たときにはマイナスから始まっている。順調に大学に入り運良く就職できた智に比べ、その道は遙かに険しかったはずだ。
「どうやったらそんな馬力が出るんだ?」
「あ? なに言ってんだ?」
 克也に追いつこうと、自分ではいろいろと頑張ったつもりだった。だけど全然距離は縮まらず、その背中は遠くなるばかりだ。
「かっちゃん見習って、頑張ろうって思ってたんだけどさ。やっぱり駄目だなあ」
 頑張れば追いつけると思っていた。追いつき、隣に並びたかった。並んだまま、どこまでも一緒に歩いていきたかった。
「頑張る前から疲れちゃった」
 克也に追い出されたあの日から、少しは努力したつもりだ。学校もサボらず通い、バイトで金を貯め、一人暮らしをする準備をした。
「んなこともねえだろ」
 就職活動も真剣にやり、なんとか形は整った。
「ちゃんとやってんじゃねえのか」
 それなのに今の自分は、ゴミ屋敷のようになった部屋で、親切に送ってくれた人に茶の一つも出せず、仕事も中途半端な上に月曜からどうなるかも分からない。弱った姿を見せつければ、或いは昔のような甘い慰めをもらえるかもしれないなどと、はしたない望みを見破られ、拒絶された。
「全然。この有様だし」
 謙遜でも自嘲ですらない、見たままの姿だ。
「どうすっかなあ」
「なにがだ」
 明るい声を出し、「実家帰ろうかな」と言ってみた。
 口に出してみると、それが一番いいような気がしてきた。生活はままならないし、実家に帰れば楽だ。
 第一、ここに踏みとどまる理由がない。ここに越してきた理由はただひとつ、克也がいたからだ。
 一昨日の雨の夜の、窓に映った影を思い出す。拒絶はずっと拒絶のままで、これ以上は踏込むなということだ。それならいっそ、離れてしまった方がいい。
 もう……頑張れない。
「そのほうが楽だし。なにやっても迷惑掛けてばっかりだし。かっちゃんだってそうだろ? わざわざ着替えなんか取りにいかされてさ。自分でも嫌になった」
 そう言ったら、克也が顔を顰めた。眉間に皺が寄っているのは変わらないが、その顔はどこかが痛むような、まるで傷付いたような表情だった。

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