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雨が止むまで〜意地っ張りの恋〜
16


 ふいに携帯が鳴り、尻ポケットからそれを取り出す。
 液晶に記された着信の相手は、宮島だった。一瞬迷い、覚悟して画面をタップする。もしもしと声を出しながら立ち上がり、克也に目ですまないと謝り、部屋から出た。
 心臓が早鐘のように鳴りだし、携帯を持つ手が強張る。克也に話を聞かれたくなくて、おろおろと部屋の中を歩き回り、結局玄関の前で立ち止まった。
『ああ。宮島だけど』
「はい。お疲れさまです」
 そう言ったきり、自分も相手も黙ってしまった。短い沈黙の後、取りあえず「ご心配おかけしました」と謝り、病院から無事家に帰り着いたこと、怪我はなんともなかったことを告げると、「ああ、それは聞いた」という返事がきた。
 今宮島は出社しているらしかった。そこで智のことを聞かされ、取りあえず電話をしてみたものらしい。
 無事を確認してから連絡をしてくる辺り、この人らしいなと思った。
『その……昨夜は、悪かった』
 本心から言っているのかは分からない。こちらも「いえ」と答えた。
『あんまり覚えてないんだよ、実は』
「ああ、そうですね」
 本当かよ、と思いながら相づちを打つ。
「こっちもこんな大騒ぎになっていると思わなくて。ご迷惑をおかけしました」
『……まあ、ほら、お互いに酒が入っていたし、はずみっていうか、後ろの奴が急に掴んできたから、さ』
「そうですね」
『俺だってビックリしたよ』
「あのあと皆さんどうされたんですか」
『そりゃお前、大騒ぎだったよ。救急車呼んで、そのあとは早々に解散した』
「ああ、それは申し訳ないことをしました」
『……せっかくの打ち上げの席が台無しになった』
 何ともないと確認できて安心したのか、宮島の調子が戻ってきた。声音がだんだんといつものように居丈高な、陰険なものに変わってくる。
『まったく。人騒がせだよな』
 どっちがだと思う。大声で呼びつけ、因縁をつけ、ビールを掛け、階段から突き落としたくせに。いっそ骨の一本でも折れていればよかったと本気で思った。
 宮島はくどくどと、月曜からの仕事のことを語り始めた。社内報の段取りが遅れていることや、月曜に智が来るかどうか分からなかったから、自分が智の分の仕事をやっているのだというようなことを仄めかしてきた。
『今日中に段取りは付くから。月曜の朝一で提出しておくよ』
 社内報についてはすでにほとんどの作業が終わっている。段取りが遅れていると言っても、あとは最終の詰めだけだ。宮島に教えられることなく自力で仕上げてきたものを、最後には自分の仕事として提出する気なのだ。
 前もそうだった。この上司は人のやり遂げた仕事を横から奪い取って、自分のものにしてしまう。そしてそれが失敗したときにだけ、下の者のせいにするのだ。チラシ原案のクレームがいい例だった。  
 言ってやれ、と思う。
 あれは俺が一人で作ったものだと言ってやれ。さんざん嫌がらせを受け、教えてももらえず、それでも苦労してやった仕事を横取りするなと言ってやれ。お前が俺を嫌うように、俺だってお前のそういう姑息なところが大嫌いなのだと言ってやれ。
『じゃあそういうことだから。いいな』
 だが、携帯を握った手は痛いほど硬直し、喉が詰まったように声が出ない。
 ふいに、肩に温かいものが触れ、ビクリと体を起こす。自分でも知らないうちに深く項垂れ、蹲るように体を折っていたことに、ようやく気づいた。
 携帯を耳に宛てたまま振り返ると、克也が立っていた。大丈夫かと問うような眼差しで智の顔を覗き、肩に置いた手で摩ってくれている。
「……でもあれは、新商品の紹介と売れ行きの経過報告を入れないといけなくて」
 手の温もりが次第に体に伝わってきて、ふっと力が抜けるのを感じた。
『それぐらい分かってるよ。そこは後からなんとでもなる。枠がちゃんと取ってあるんだから』 
 智の反論に被せるようにして宮島が大きな声を出してきた。
「朝一に提出するのは待ってください。自分の手で最終チェックがしたいですから」
 克也の顔を見つめながら、勇気を出して声を発する。
『そんなのは俺がやっておくからいいんだよっ!』
「嫌です」
『……なに』
「あれは自分の仕事です。最後までやらせてください」
『お前なに言ってんだ? 仕事に自分のも他人のもねえだろうが』
 脅すような低い声で宮島が言ってきた。だが、電話で相手の顔が見えないということが、智を強気にしていた。
 それに、目の前には克也がいる。
「……それに、月曜に人事に呼ばれています」
 電話の向こうが沈黙した。
「事情が聞きたいと言われました」
『事情ってなんだよ』
 何を言うつもりなのか、自分に不都合なことを言うつもりなのか。探るような声が焦っている。陰険だがそれ故に小心でもある男だ。酔っていなければ本心も言えないのだ。
 さんざん嫌がらせをしてきたくせに、それを訴えられるのが恐いらしい。沈黙している相手の困惑したような顔が思い浮かび、暗い小気味よさが湧いてくる。

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