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雨が止むまで〜意地っ張りの恋〜
18


「ごめん。別に早く帰れっていう意味で言ったんじゃないよ。だってほら、俺はさっき飯食ったけど、かっちゃんは昼に食ったっきりだろ。うちはほら、こんな有様だし」
 克也には克也の生活がある。今日会えたことは嬉しかったし、今ここにいてくれることも嬉しい。だけど、これ以上は甘えられない。
「着替え取ってきてくれてありがとう。助かった。ほんとごめんな。なにもお礼もできなくて」
 ありがとうもごめんなさいも、ちゃんと言わなければいけなかった。いつでも言えるだとか、分かっているだろうなんて、自分の傲慢な決めつけだった。いつでも側にしてくれるからと、勝手に高を括り、その関係を大切にしてこなかった。 
 大事な部分は切れてしまった。だけどまだ細くは繋がっている。せめてこれからは同じ失敗をしないように、言葉を伝えていこうと思った。
「なんだそれ。お前らしくもねえなあ」
 殊勝な態度を克也が混ぜっ返す。はは、と笑って智も返した。伸びてきた手が智の頭をがしゃがしゃと掻き回した。ふふ、と笑いを零しながら、されるままにしていた。
 手が離れ、触れていた体温がなくなり、その体温の持ち主を仰ぎ見る。やさしい顔をした克也が智を見つめていた。
「本当に大丈夫なんだな」
「うん。大丈夫だ」
 しっかりと見返して、なくなった温もりを確かめようと、髪を直す振りをして、自分の頭に手を置いた。
 部屋に戻っても座る場所もないほどに散らかっている。そのまま靴を履くように促すと、克也は「そうだな」と、あっさりと玄関に置いてある靴に足を入れた。
「じゃな。なんかあったらすぐ電話寄越せよ」
「うん。ありがとう」
「マジで。飛んでくるし。お前も来い。いつでもいいから。夜中でも構わねえしよ」
「まさか。朝まで待つよ」
 気軽に言ってくる言葉を話半分で聞きながら笑って答えた。鵜呑みにしたら大変だという警鐘はずっと鳴り続けている。
「なんだよ。いいっつってんだよ」
「うん。ありがとう。あ、自転車も明日俺、自分で取りに行くから」
「いいって。俺が持って来てやる」
「そのまま実家行くかもしれないし」
 そう言ったら、克也は「そうか」と少し残念そうな顔をした。
「ま、それもいいかもな。あんまり心配掛けんじゃねえぞ」
「うん。実家帰っても、時々は遊びに来てくれよな。母ちゃんも喜ぶし」
 ドアを開けかけた克也の動きが止まり、もう一度振り返ってきた。
「どうしたの?」
「実家行くって、引っ越すってことか?」
「いや、そりゃ一旦は戻って来るけど。でも、うん。ここはそのうち引き上げる」
「なんで?」
「なんでって……」
 自分の駄目さ加減を再認識したから。いろいろなことを立て直す為にも、ここから出ていくのが一番いいような気がするから。
 克也だってきっとそのほうが楽だろうし、……下手な嘘を吐かずに済むだろうから。
「引っ越し止めたんじゃねえのか」
「そんなこと言ってないけど」
「でもお前もう大丈夫だって……」
「仕事はね。でもほら、一人暮らしとか、俺にはまだ無理だったかなって。情けない話なんだけどさ。これからもいろいろあるだろうし」
「だから俺がいるって言ってんだろうが」
「そういうわけにはいかないだろう」
「だからなんでだよ。変な遠慮しやがって。いつだって言ってこいっつってんだよ」
「迷惑かけたくないんだよ」
「今さら何言ってんだ?」
「そうだけど……」
「それに迷惑だなんて思ってねえぞ」
「嘘だ」
「俺がいつ嘘を吐いた?」
 余裕の表情で、しゃあしゃあと言ってのける顔を凝視した。
「嘘吐いてないんだ……ふうん」
「……おい」
 せっかく綺麗ごとでコーティングして、うまく取り繕うとしているのに、親切ごかしで適当なことを言われ、隠してきた感情が頭を擡げてくる。
「適当なことを言うなよ。いつでも来いとか。鵜呑みにしたこっちが馬鹿をみるじゃないか」
「なんだその言い種はよ」
 凄んでこられても恐くはない。殴られたって構わなかった。殴られるよりもずっとつらい痛みを、いつも抱えてきた。
 確かに今さらと笑われても仕方がないほどの迷惑を掛けてきた。今日だってわざわざ着替えを取りに病院とマンションとを往復させ、こんな汚い部屋に付き合わせている。嬉しくて、申し訳ないと思う。だけど、それ以上に傷付いてもいるのだ。
 一昨日の晩、智がどんな気持ちで克也の部屋の窓を見上げていたのか克也は知らない。気軽に来いだなどと、嘘でも言って欲しくない。

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