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雨が止むまで〜意地っ張りの恋〜
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 五月の連休は、公言通り実家に戻っていた。
 社で扱っている商品の詰め合わせを土産にして手渡すと、母が目を丸くした。誕生日も母の日も、プレゼントなどしたことがなかった。旅行に行って土産を買ったこともない。
 克也に初任給でハムとビールを贈ったとき、礼と一緒に「お袋さんにもなんかしてやれ」と言われた。それをただ実行しただけだが、効果は絶大だったらしい。受け取った土産を嬉しそうに眺めながら、職場での様子を聞いてくる姿に、自分のそれまでの気遣いのなさに思い至った。
「で、かっちゃんとはちゃんと仲直りができたの?」
 喧嘩したなんて一言も言ってはいなかったが、親には全部ばれていたらしい。
「随分長いこと離れてたみたいねえ。かっちゃんが来て、あんたが引っ越したの知らないって聞いて、こっちがビックリしたわよ。まったく」
 叱るときには容赦のない母親だ。こういうときに適当な言い訳をしても無駄なのは分かっているから、黙って叱られていた。
「よっぽど怒らせたのね」
「……うん」
「あんたが全面的に悪いわね、それは」
 原因も経緯も知らない母が、勝手に決めつけ糾弾してくる。当たってはいるが、親に言われると無性に腹が立つ。
「なんにも知らないくせに」
「分かるわよっ。あんたが悪い」
「なんだよ」
「かっちゃんはね、よっぽどのことがない限り怒んないのよ」
「んなことねえよ」
 しょっちゅう怒鳴られたり引っぱたかれたりしていた。その原因も元はと言えば自分なのだが。
「小っちゃい頃からずっとあんたに振り回されて、見ているこっちが申し訳なくなるくらい、あんた酷かったわよ」
「うるさいな」
 身に覚えがあるだけに居たたまれない。そんな智の心情などお構いなしに、母親は智の昔からの悪行を次々とあげつらって叱ってくる。
 おねしょの濡れ衣を着せたこと。悪戯の濡れ衣を着せたこと。学校でも家でも、どこでも克也に責任を丸投げしていたこと。困れば克也を呼び、喧嘩に巻き込まれては克也に頼り、怪我をした克也の隣で自分のほうがわあわあ泣き叫んでいたこと。
「あんたのほうがお兄ちゃんなのにねえ」
 四月生まれの智と、早生まれの克也とでは、一年近くの差があり、小さいときは体格も智のほうが上だった。小学校の高学年あたりからどんどん追い抜かれ、今では智のほうがまるで弟のような案配になっている。
 記憶の最初にある克也は、自分よりも小さくて、泣き虫だった。転んでは泣き、犬が恐いと言っては泣き、智に縋り付いていたものだ。
 主に智が悪さを働き、それに付き合わされる形で、今目の前にいる母親に二人して叱られた。その頃から「どうせあんたがかっちゃんを誘ったんでしょ」と、図星を指され、公平な母はきっちりと智だけを叱ったのだが、克也は叱られる智の隣で智よりも大きな声で「ごめんなさい」と謝り大粒の涙を零していたのだ。
 それが智の脳裏にいつまでも居座って、だから克也は智にとって、そういう存在だった。自分よりも体が大きくなっても、人から恐れられるようになっても、なんら変わることがなかったのだ。
 子どもの頃からずっと一緒にいて、克也とは常に側にいるもの、親友だ、家族だというものよりも、もっと深い部分で繋がっているような気がしていた。それは自分の体の一部のような、細胞のどこかが解け合っているような、絶対的な信頼だった。
 それがいつしか甘えとなり、その信頼を失ってしまったのだと気が付いた時、克也は自分とは違う人間なのだと改めて思い、愕然とした。
 考えてみれば当たり前のことなのに、智が望むことは克也も望んでいるのだと、彼にとって絶対の存在は自分なのだと過信していた。叱られても呆れられても怒鳴られても平気でいられたのは、最後には克也は自分を許すのだと高を括っていたからだ。
 怒り狂う克也にいたぶられた行為はショックだったが、それ以上にズシンと胸にきたのは、その後の態度だった。
 いつもとは違う克也の態度に狼狽し、なんとか機嫌をとろうと、帰りを待った。取り上げられた鍵がないと、部屋を開けっ放しにしてしまうという言い訳もあった。
 だが、部屋に居座る智に向けて、克也は本当に迷惑げな顔をし、皮肉を言ったのだ。
 いい気なものだと、お前は俺と違うのだと、そう言った。
 突き放されたのだと思った。
 暗い穴の淵を覗き込み、落っこちそうになりながら、尚も身を乗り出せたのは、絶対に引き戻してくれる腕があったからだ。これ以上はよせという声に耳を貸さない智から、その腕が離れた。
 真っ逆さまに落ちていくあの感覚を、今も忘れることができない。

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