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雨が止むまで〜意地っ張りの恋〜
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「……かっちゃんって泣き虫だったじゃない?」
 母親の糾弾から自分の思考に嵌っていた智の耳に、声が入ってきた。顔を上げると、母が何かを懐かしむような遠い、やさしい目をしていた。
「いつもあんたに縋り付いて、大口開けてワアワア泣いてたの、可愛かったんだよねえ」
 母にとっても、克也のあの泣き顔は記憶にやさしいものだったようだ。
「あんたが五歳ぐらいのときかなあ。かっちゃんは一年遅かったから四歳ぐらいのとき」
 問わず語りのように母が話し出す。近所のよしみと年が近いという親しさで、共働きだった親に頼まれ、ほとんど毎日のように克也を預かっていた。
 転勤の多い克也の父は不在が多く、母親も疲れていた。仕事帰りに迎えに来て、そのまましばらくここで話をしたことがあったのだという。
 夫に女性がいるかもしれないこと。たまに家に帰ってもほとんど会話が成立しないこと。家のすべてを自分に任せきりにして、働きながら一人で克也を育て、疲れ果てていること。
 取り留めもない愚痴を聞きながら、克也のためにあと少し頑張れと励ましたら、堰を切ったように泣き出したという。
「下手に励ましちゃったのも悪かったんだけど。かっちゃんはあんたと別の部屋で遊んでてさ。でもね、今思うと、かっちゃん全部分かってたんだろうなあって思うのよ」
 その日、母親を一人で帰し、お泊まり会と称して、克也を何日かこの家に預かった。疲れ切っていた克也の母親を労る気持ちからでた誘いだった。それまでもしょっちゅう預かっていたし、面倒をみること自体は大変なこともない。克也も懐いていたし、智も喜んだ。
 三日ほど預かり、もうすぐ迎えに来るという段になって、智が嫌だと駄々を捏ねた。
「『もう家の子になっちゃいなよ』って、かっちゃんを引き留めて。『俺の母ちゃんやるから』って。随分酷いこと言ってた」
 そんなことを言った覚えはなかったが、親に連れられて帰る克也をいつも引き留めていたことは覚えている。智の性格上、そんなことぐらいは平気で口にしただろうことは想像ができた。
「この野郎って思ったけどさ、私もふざけて『いいよー、家の子になる?』って手ぇ広げてさ。そしたらかっちゃん『智の母ちゃんは智のだから』って」
 恥ずかしそうにそう言って、それでも傍若無人な息子は「こんな母ちゃんお前にやる」と言い放ち、親も意地になって広げた手を克也に向け、おいでおいでと抱き込んだ。
 胸に抱かれ、はにかむように笑った克也は、笑ったまま、大粒の涙を落としたのだという。
 無邪気に笑い、涙を落とし、その顔が崩れ、一瞬唇を噛み、それからまた笑う。目から大粒の涙を零しながら。
「にこ、って笑いながらね、ぽろぽろ涙を落とすのよ。声も出さないで」
 子どものあんな哀しい笑顔を見たのは初めてだったと、母は言い、テーブルにあったティッシュを引き寄せた。
「いろんなことを我慢してるんだなあ、って思った」
 克也の泣き顔は智にとっていつでも記憶の原点だが、その涙をいつから見なくなったのかは定かではない。確かにあれほど手放しで泣きわめいていた克也は、いつの間にかほとんど泣かなくなっていた。母にはその辺の境が分かるのだろう。
 蟹しゃぶをした日、実家に帰らないのかと聞いた智に「俺の家じゃないから」と笑っていた顔を思い出す。
 欲の薄い人間だということはなんとなく感じていた。何が欲しいとか、何になりたいとか、そういうことを口にしたことがない。
 周りからは恐い、気性が激しいなどと評価されても、本当はそうではないことを知っていたから、なんとも思わなかった。
 欲求や執着が薄いのではなく、その前にすでに諦めていたのか。 
「かっちゃんはいい子なのよ。あんたなんかよりずっと」
 盛大にティッシュで鼻をかみながら、母親がこちらを睨んでくる。
「だから、そんなかっちゃんを怒らせたあんたが絶対に悪い」
 母親の叱責に、力なく笑う。
「あのさ、母ちゃん。かっちゃんってさ……」
 俺のことも迷惑だったのかな。
 俺といるのも、かっちゃんはずっと我慢していたのかな。
 母に聞いてもどうなるものでもない。そうだと言われても、どうしようもないし、そんなことはないと慰められても、今となってはそれもどうしようもない。
 懐に入り込み、何処かが繋がっているという絶対的な信頼は、失ってしまった。
 その繋がりが智だけの思い込みだったのかは分からないが、あの日、智は克也の外へと完全に放り出されてしまったことだけは、分かっていた。
 その信頼を取り戻すには、生半可なことでは無理みたいだ。
 もっと、頑張らないと。頑張って、頑張って。
 そしたらいつかかっちゃんは、前のように俺を懐に入れてくれるだろうか。



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