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雨が止むまで〜意地っ張りの恋〜
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 ゴールデンウイークが明け、仕事が本格的に始動した。今まで客扱いだったのが、そうではなくなり、厳しく指導、叱責を受けるようになった。
 特に直属の上司である宮島の態度は、きついものだった。
 合コンをセッティングさせられ、苦手だな、とそのとき思ったが、ここにきて本格的に気が合わないことが分かってきた。そつなく働いているようで手抜きが多い。教え方もぞんざいで、繰り返し質問すると嫌な顔をする。
「そんなことも分からないのか」と叱られるが、そんなこともなにも教わる前に、次の段階の作業を振り分けられ、右往左往しているとどやされる。
 それでも、仕事の要領がまだ掴めていないのは本当で、ただただ頭を下げるだけだった。
 今まで甘えてきた利子がついたのだと思うことにしている。
 すぐ近くに、なにも持たないところから一人で立ち上がり、外れてしまった道を一からやり直し、その先へも進もうとしている姿を見ているのだ。こんなことぐらいで愚痴る資格はないのだと思い決め、歯を食い縛る毎日だった。
 克也は約束通り、北海道の土産を届けに来てくれた。こちらも実家から言付かった食材があったから、気軽に連絡を入れられた。
 持っていくよという智に、克也は自分が行くからと断られた。土産は有名どころのチョコレート菓子だった。
「蟹とウニは?」
「ふざけんな」
 言付かった食材を渡す前に、当然家に上がるだろうと気軽に招く。そのための準備もしていた。
 だが、克也は受け取ったらそのまま帰ると靴を脱がなかった。
「雨降りそうだしよ」
 そんなの止むまで家にいればいいのにという言葉は、口にできなかった。試験も近く、梅雨に入る前の納期も迫っていて忙しいらしい。それもなんでもと、引き留める理由もない。
 そうか、と納得した振りをして、荷物を渡し、次の約束を取り付ける暇もなく、克也は帰っていった。まだまだ道のりは遠そうだ。
「おい、長岡っ。ちょっと来い」
 昼休みから帰ってきたとたん、宮島から呼ばれた。声の調子を聞いても、いいことではないなと予感する。だいたいこの上司に呼ばれていいことなどあった試しもなかったが。
 自分のデスクに寄ることもせず、宮島のもとへ行くと、手にしていた紙を目の前に突きつけられた。数枚重なって、目のギリギリのところで止まったそれは、午前中智が提出したチラシの原案デザインだった。
「NGだ。やり直し」
 夏に向けて新商品の発売が予定され、その宣伝用のチラシ作りを命じられていた。デザイン自体はPR会社に外注したものだ。その見本の色が指定したものと違うと言って、宮島が険悪な顔をして智を睨んだ。
 いくつか付き合いのあるPR会社の中で、今使っているところは、比較的新しい会社だ。
 主にスーパーで配る予定のチラシは、客層のターゲットも若い年代よりはもう少し上の主婦層を狙っていた。おしゃれ感よりもお得感、手間を省いて美味しいものを、というコンセプトに対して、いささかポップ過ぎやしないかと、実は智も思っていた。
 マンネリ化を打破しようという目論見が、どうやら裏目に出てしまったらしい。保守的な上層部の意見を聞かず、それを押し切ってこの会社にデザインを頼んだのは、宮島だった。
「わざわざ出向いていって、なんでその場で言ってこないんだ。これじゃあ子どもの使いじゃないか」
 いつものように大声で叱責され、頭を下げる。
 色見本と仕上がりが多少異なることぐらいは承知の上で頼んだものだ。宮島だってそんなことは分かっているはずだった。手渡して確認したとき、「うんうん」と頷いていたことなど微塵も出さない機嫌の悪さだ。たぶん宮島自身も納得して持っていき、上からクレームがきたものと思われた。
「何のためにお前を行かせたと思ってるんだよ。午前中いっぱい無駄になったじゃないか。え、給料もらえれば適当でいいってか?」
 向こうから出向くという知らせを受けてからお前が行ってこいと言われ、飛んでいった。雨の中、印刷物を濡らさないように気を使い、帰ってきても労いの言葉ひとつ掛けてこない。仕事だから当然といえば当然だが、それでも一言「ご苦労様」の言葉ぐらいはあってもいいのではと思わないでもない。
 その思いやりのなさを諦めつつも、不快に思ってしまうのは、たぶん、どこかしら自分にもそういう部分があるという、自責の念があるからかもしれない。
 結局、午後中チラシのことに振り回されて、他の業務が遅れてしまい、残業になる。それもまた宮島の攻撃の材料になってしまった。
 嫌みを言われながらの残業を終え、退社する頃にはすっかり夜になっていた。雨はまだ降り続いている。
 疲れたなあ。
 雨の日特有の蒸れた匂いに囲まれながら、地下を走る窓に映る自分は、生気のない、幽霊のような顔をしていた。
 地下鉄から地上の電車に乗り換え、自宅のある駅に辿りつく。吐き出された人の後ろにノロノロと付いていくと、前方に見覚えのある後ろ姿が見えた。
「かっちゃん」
 思わず声を掛けると、人の波から頭二つ分も飛び出た長身が振り返った。どうやら同じ電車に乗っていたらしい。
「おう。今帰りか? 随分遅ぇな」
「そっちも。毎日この時間なんだ?」
「まあな。ちょっと飲んだからいつもよりは遅ぇけど」
 そう言って横を向く克也の隣に人が立っていた。
「ども」と、首をすくうように下げる頭の色が、鮮やかな金色だった。
 こちらも会釈を返すと、まだ十代とおぼしき人物は、にちゃ、と笑い克也を見上げた。耳には髪の色と同じ、金色のハーフリングのピアスが片方だけ付いていた。
「これ、同僚。つか後輩。学校も一緒に通ってる」
「これっすかぁ。ひでえなあ」
 克也がその人を紹介し、金髪の青年がおどけたような声を上げ、笑った。授業の後一緒に飲み、ここまでやってきたらしい。克也のほうはそれほど酔っている様子はないが、金色頭のほうは目元を赤くし、出す声が大きかった。これから克也の部屋でまだ宴会を続けるようだ。
「こんな時間まで大変だな」
 黙って二人のやり取りを見ていた智に、克也が労いの声を掛けてくる。
「そっちだって仕事終わってから学校行ってんだろ。そっちのほうが大変だよ」
 顔が引きつらないように注意しながら、ゆっくりと笑って答えてみせる。
「じゃあ。あんまり飲み過ぎないようにな。かっちゃん飲み過ぎるとやばいから」
「うるせえよ」
 智の軽口に克也も笑って返してくる。いつもの調子だ。
 改札を出て、反対方向に向う二人を見送った。親しげに並んで歩いて行く後ろ姿を、ぼんやりと眺めていた。一度だけ振り返った金色頭が智に会釈をする。克也は振り向かず、隣の男になにか話しかけていた。
 途中のあのコンビニで酒を買うのか。克也の部屋で、二人して呑むのか。呑んで語り合って、泊っていくんだろう。もう深夜に近い。そして、明日の朝また一緒に出勤するんだろう。
 前は一つしか布団がなかったが、今はどうなんだろう。男同士だから、雑魚寝でもするんだろうか。それとも。
 駅前にある保管所までいき、自転車を引きとるとそのまま外に出た。合羽を着るのも億劫だ。どうせ全部湿ってしまっている。
 雨の中、黙々と前だけを向き、ペダルを漕いだ。
 髪の毛と同じあの金色のピアスに、唇を寄せている克也の顔が浮かび、それを振り切るようにして腰を浮かし、力一杯ペダルを踏む。
 雨に叩かれるようにして顔を上げ、自転車を漕ぎ続けた。

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