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明日晴れたら〜ろくでなしの恋
21


 電車を乗り継ぎ智の家へと向う。訪れるのは何年振りだろう。
 しばらく玄関の前で逡巡した後、チャイムを鳴らす。来訪者の名前も確かめずにドアが開くところは昔と変わっていなかった。気軽にドアを開けた智のお袋さんは、そこに立っている克也の姿を見て、目を見開いた。
「あらやだ。かっちゃん。かっちゃんじゃないの! ちょっとやだ。どうしたの。久しぶりじゃない。元気にしてた? 連絡も寄越さないで。あらあら大きくなっちゃって! そうそう、聞いてるわよ。学校通い始めたんだって? やだちょっと、なにしてんの! 上がりなさいよ」
 挨拶もなにもする前に機関銃のようにしゃべくり倒され、お袋さんの気が済むのを待つ。
 玄関に入り、廊下を歩き、リビングに通されるまで、お袋さんはしゃべり通しだった。質問をされ、応える前に次の質問が降ってくるから「ああ」とか「どうも」とかしか返事ができなかった。
 リビングの様子は昔と変わらない。克也がいた頃から育てていた観葉植物が巨大になり、テレビの画面が液晶に変わっているぐらいか。
「それにしても久しぶりだわねえ。本当に。心配してたのよ。智に連れて来いって散々言ってたんだけど」
「すいません」
 お茶をもらいながら頭を下げる。
「いいんだけど。元気なら。それに仕事しながら高校も行ってるんでしょう? 忙しいものね」
 自分のお茶も一緒にテーブルに置き、お袋さんが向かい側に座った。自然と座る位置が前と同じなのがなんとなく可笑しく、同時に安堵する。お袋さんが座り、その真向かいが何故か克也、そして克也の隣が智だったのだ。
「あの、智は今日は? 仕事?」
 日曜でも仕事が休みとは限らないと気が付き、そう聞くと、お袋さんがまた目を見開いた。
「やだ。聞いてない? 智、ここにいないわよ。就職と同時に一人暮らし始めてね」
「え」
 考えもしなかったことに、一瞬固まってしまった。
「……ああ。そうか」
 就職先を聞いていなかったから本当に考えてもいなかった。智は就職してもそのままこの家にいるだろうとばかり思っていたが、就職先が近所だとは限らない。もしかしたら地方かもしれなかったのだ。
 送られて来た宅配便の住所をちゃんと確かめてはいなかった。智の名前と、何となく東京都という文字だけ残像として残っている。だからここだと思い込んで来てしまった。
 しまったと思った。
 智がどこに住んでいるかということも、一人暮らしを始めたことすら知らない事実に、お袋さんは何かを感じるだろう。
「ね。もしかして喧嘩した?」
 案の定のところを突かれ、どう答えようかと迷う。
「まあねえ。そうじゃないかってちょっと思ってたのよ」
 だが、克也が返事を探す前にまたお袋さんが話し始める。
「あれじゃない? 去年の夏頃、そうじゃない?」
「……ああ、まあ」
 梅雨時期だったからそうだろうと思い、曖昧な返事をすると、「やっぱりねえ」と確信したように頷いている。
「そうじゃないかと思ってたのよ。あいつ、へしょげてたから。いつだったか顔パンパンに腫らしちゃってね。泣き腫らしたんだわね、きっと。そんな顔して近所歩くなって叱ったんだけど、なんだか意地になっちゃったように大学行くってきかなくてさ」
 ペラペラと智のそのときの様子を語るのを、お茶を飲む振りをして黙って聞いた。
「あれだわよね。あいつ甘えただから、かっちゃんに飛んでもない迷惑かけてたんでしょ。ごめんねえ」
「……いや」
「ほら、あいつお父さんに似てちょっと世間舐めてるっていうか、とことん馬鹿だしさ。考えなしなのは知ってたんだけど、かっちゃんとこ行ってるって思ったから安心してたのよ」
「や、それはあんまり……」
 信用されても困ると思う。高校を退学になりチンピラまがいの行動を取っていたことを知っているはずだ。それのどこを信用して安心していたんだろうかと不思議に思う。
「かっちゃんってほら、芯のところでしっかりしてるから」
「そんなこと、ないっす」
「やだ、おばちゃんの目は節穴じゃないのよっ。馬鹿にしないでくれる?」
「あ、いや」
「かっちゃんはいい子なのよ。おばちゃん知ってるんだから」
「あー……どうも」
「それにほら、今はちゃんとして働いてるし、高校も行き直して、大学も受けるんでしょ? 智が凄いだろって自慢してたわよ。『凄いなあ、凄いだろ』って。自分はあんななのにね。まったく。あはははは」
「……あー」
「おばちゃんも鼻高々よね」
「そうすか」
「そりゃあそうよお。あんたは息子みたいなもんだもの」
 機関銃のように捲し立てていたのが、急にしんみりとした調子になり「本当にねえ」と溜息を吐いている。
 さんざん帰ってこいと言われていたのにと、今さらながら申し訳なくなった。
 高校を追い出されてしまったときのこの人の、途方に暮れた顔を今でも忘れていない。合わせる顔がないと思い込んでいたのだ。
 今は多少なりとも将来の道が開け、それを素直に喜んでもらっている。
 高校だってまだ卒業できると決まったわけではないし、大学だって行くかどうかも分からない。それでもこうして顔を見せに来られたのは、克也の中にあった後ろめたさがなくなっているということが大きかった。
「ええと、ずっと来れなくて……すいませんでした」
 素直に頭を下げると、「そうよお!」と、容赦なく叱られた。
「智も出てっちゃったし、あんたは全然顔見せてくれないし。夕飯食べていくでしょ? そうしなさい、ね」
 ゴリ押しされて、どうしようかと迷う。智に礼を言いに来て、本人に会わず飯だけ食って帰るのかと思うと、心残りだった。だが、克也の訪れをここまで喜んでもらい、それを蹴るのも気が引けた。
「ついでにおかず持っていきなさいよ。いっぱい作るから。どうせ自炊なんかできてないんでしょ? 普段なに食べてんの?」
「あー、弁当とか」
「ほら、やっぱり」
「すいません」
「それで一緒に智んとこにも届けてよ。どうせ近いんだから」
「え?」
 間抜けな声が出て、お袋さんがぷふ、と吹き出した。
「あいつ馬鹿でしょ。かっちゃんのすぐ側に部屋借りてるのよ。てっきり知ってるもんだと思ってたけど。なんで言わないのかなあ。馬鹿だ、やっぱり」
 馬鹿だけど許してやってと、忙しく台所に立ちながら、お袋さんがやさしい声を出した。

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