INDEX
明日晴れたら〜ろくでなしの恋
8


 いつものように職場に着き、朝会議で今日の工程の説明を受けていたら、事務方に呼ばれた。
 季節はクリスマスシーズンへと移っている。
 無断欠勤をしていた同僚は、結局あれ以来姿を見せず、克也はその穴埋めで、前に所属していた建築業務から、配管施工業務へと移っていた。
 荻原工務店は店舗、家屋の設計施工からリフォームまでを扱っている中規模の建築会社だ。大工を抱える建築業務に加え、配管施工業務、電気配線施工業務を抱えている。
 年末に向けて家屋の修理だなんだと忙しくなるから、また部署を移ってくれと言われるのかと思い、事務室に行くと、事務員の星野と一緒に社長がいた。
 従業員と同じ灰色の作業着を着ている小柄な男は、およそ社長らしくない。白髪交じりの短髪は大工らしく、日に焼けた肌には深い皺が刻まれている。黙っていれば多少強面だが、笑うと前歯に隙間があり、途端に愛嬌のある表情を見せる男だった。
 社長は応接セットのソファににドッカリと座り、工程表とも設計図とも違う紙を手に持っている。
 克也の履歴書だった。
「カツ、お前高校中退だったな」
「……ぅす」
 ここへ来たとき、社長には事実を話している。それで就職を渋られた覚えはないし、克也の他にも中退者はいる。いまさらそれが問題になるとは思っていなかったから、何故ここに呼ばれ、なにを言われるのか皆目見当がつかなかった。
「高校は出といたほうがいいな」
 履歴書をポンとテーブルの上に軽く投げて社長がなんでもないことのように言った。
「……あー。出るって言っても」
 追い出されてるし。
 返事に困っていると、隣に立っていた星野が話し出した。
「定時制の高校、といっても、最近は二部、三部制っていうのが主流らしいけど、秋葉君、そこに通いなさい」
 履歴書の横に星野が広げたのは、高校のパンフレットだった。定時制といえば、働きながら高校へ通う者のための学校で、前は夜間の授業が主流だったが、最近は不登校などで普通校に通えなくなった現役の高校生が通う場合も多いため、午前、午後、夜間と時間が選べるのだそうだ。
 自分の時間に合わせ、時間割を選択し単位を取る。働きながら三年から五年掛けて卒業する。
 そこに行けと言われ、克也は面食らった。
 今さら? 何故学校なんかにという思いが先に立つ。中退はしたが、今は働けている。サラリーマンになりたいとも、大金持ちになりたいとも思っていない。
 このままここで働かせてもらい、経験を積んでいずれ独り立ちするにしても、ずっと先の話だし、第一そこに学歴が関係するとも思っていなかった。現に今克也が下に付いている棟梁の吉田だって中学を卒業しただけだと聞いていた。
 克也の疑問を見越したように、星野は淡々と「吉田さんぐらいになるともう、今から高校卒業しても仕方がないんだけどね。すでに棟梁だし、免許も持っているし」
 建築業界では様々な種類の免許があり、それがものを言う世界だ。社長や先輩たちに勧められ、いずれ克也も取ろうと思っていたが、星野の説明では、その免許を取るのに学歴が関係してくるというのだ。もちろん長年働いていた実績があれば、試験は受けられる。だが、その実績の年数が、卒業した学校によって違ってくるのだ。
「高校を出ていれば五年の経験で済むものが、一〇年十五年なんてなるし、一級になるともっと難しくなる。馬鹿らしいでしょう。腕があるのに高校を出ていないだけで何年も免許取れないなんて」
 広げられたパンフレットを手に取って眺めながら説明を聞く。確かに五年の実績で受けられる試験を、高校を出ていないからという理由であと十年待たされるのは時間が勿体ないような気がした。
 パンフレットには、今星野が説明したように、午前の部、午後の部などの時間割が載っており、取るべき単位の計算表もあった。工業系の定時制に行き、選択した実技の単位を取れば、卒業する段階で二級の免許が与えられるものもある。公立は授業料がタダだといっても諸経費は掛かる。それを支払いながら、なおかつ時間を作って学校へ通うのは、とても無理だと思えた。
「夜の時間帯が多くなるが、月に何日とかなら昼の時間も作ってやる。なんとか頑張れないか?」
 社長が口を開いた。夜間だけの通学だと卒業するまでに四年を有するが、指定された昼の授業で修学し単位を取る定通併修という制度があると言われた。要は夜間の通学をしながら、定期的に昼も授業を受け、工業学科という特別部門を学び、働きながら三年で卒業しろということだった。
 学校に通う諸経費も、通学で休んだその日の給料も出してやるという言葉に、その顔を思わず見返した。
「なに、投資だ。有望な社員には投資する。はやいとこ免許を取らせて働きで返してもらうさ」
 ごま塩頭で日に焼けた顔が、悪戯っ子のようにニッパリと笑う。
「高校通ってみて、いけそうなら大学にも行ってみろ。そのほうが早い」
 大学。
 自分にはおよそ関係のない単語に、まさかと首を振る。自分が大学に行けるなんて、今まで一度も考えたことはないのだ。
 驚いている克也に、社長は尚も笑ったまま「大丈夫じゃねえか」と、気軽に言った。
「克也、お前は真面目だし勤勉だ。狡さがない。きっと大丈夫だ」
 ここにきてから三年間、克也を見てきた社長が太鼓判を押す。続くものかと親にも信じてもらえなかったものを、目の前のおやじ一人が信じ、背中を押してくれている。
「まだ二十歳を過ぎたばかりだろう」
「来月で二十一っす」
「そんなもん二十歳も二十一も俺らに取っちゃ同じだ。これから高校行って、大学出たって三十前だぞ。グズグズしてねえで、チャッチャと出世しちまえ」
 日に焼けたすきっ歯が笑い、克也の背中を力強くバン、と叩いた。


novellist