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明るいほうへ
14

「い、いいよ、戸部君。風呂ぐらい自分で入れるって」
 泥酔しているわけじゃないから、シャワーを浴びて体の匂いがとれれば平気なのだ。実際みんなの飲みっぷりに圧倒されて、量的にはそれほど飲んでいない。
「駄目駄目。だって背中のあれは……自分で洗えないでしょ?」
 戸部君が可笑しそうに言う。肩の震えが大きくなって、くっ、くっ、と上下する。
「背中の、あれ?」
「野坂さん、いたずら書きされちゃってさ。油性マジックで」
 戸部君があの時の有様を思い出して、あは、あはは、と笑いだした。
 そうなのだ。戸部君が着替えを用意してくれている間に、借りたタオルで体を拭いていて、誰がどこから持ってきたのか、マジックで落書きをされてしまったのだ。一人がやり始めたら、もう酔っぱらい集団の心理でお祭り騒ぎになってしまう。俺も俺もと集(たか)られて、立派な寄せ書きが出来上がってしまったらしい。大学生の悪ふざけは小学生並みだった。
 だけどいくらなんでも戸部君に洗ってもらうなんてとんでもないことだ。風呂に入れるってことは、裸になるわけで、そんな、先輩に悪いじゃないか。というか、先輩は? どうしたんだ? 一緒に車に乗っていたはずなんだけど。
「本当に大丈夫だって。毎日洗っていればそのうち消えるから。あ、酔いが醒めてきた。もう一人で歩けるから、降ろして」
 肩の上で落ちない程度に身をくねらせた。遠藤君が落ちたら受け止めようとするように、腕を伸ばして構えてくれている。
「遠慮しないでもいいですよ。油性マジックって、落とすのにコツがあるんです。大丈夫、慣れてますんで。ほら、暴れない。降りたって野坂さん裸足なんだから」
 慣れているのはマジックを落とすことか? 風呂に入れることなのか? それとも両方なのだろうか。戸部君は暴れる俺をもう一度担ぎ直した。靴も、脱いだ服も戸部君が持つ紙袋にまとめて入れられている。裸足で歩いても構わなかった。もうアパートはすぐそこだ。
「いいって、本当に。戸部君降ろして」
「じゃあそういうことで。遠藤君、おやすみなさい」
 俺の懇願をあっさりと無視して戸部君が歩きだした。
 いやだいやだと、駄々っ子のように体を揺らした。大したことじゃないと言われても、人に体を洗われるなんて嫌だった。それに、遠藤君にそれを知られるのも嫌だった。必死に体を起して助けを求めるように腕を伸ばした。つられるように伸ばされた遠藤君の腕に掴まった。腕の支えを得て顔を上げたら、遠藤君が当惑したようにこっちを見ていた。その口は「あ」の形に開いたまま止まっている。 
 その「あ」が、「あ、どうしましょう」なのか「あ、おやすみなさい」なのか「あ、それなら俺が代わりましょうか」なのかはわからなかった。わからなかったけれど、俺の求めている答えは三番しかない。だから掴んだ腕を手繰り寄せて、その先にある首にしがみついた。
 急に重くなって動かなくなった俺の体に引きとめられて、戸部君の足が止まった。戸部君と遠藤君との間にぶら下がった俺は、つり橋みたいになっている。
「野坂さーん、これじゃあ歩けませんよ。電車ごっこじゃないんだから」
「あ、あの、野坂さん嫌がってるみたいだから……俺が連れて行きます。落書きも消しますから」
 遠藤君が俺の望んだ答えを言ってくれた。
「遠藤君こう言ってますけど、野坂さん、そうします?」
 無言で遠藤君の首に掴まっていた。「はい、そうします」とは言えなかった。だって言わなくても戸部君は俺の答えを知っているじゃないか。
 戸部君が俺の下から抜け出して、遠藤君に「はい、どうぞ」と手渡した。荷物みたいに渡された俺は、遠藤君の首根っこにつかまったままお姫様抱っこされている。
「じゃあ頼みます。これ、靴と服が入ってます。鍵はこれ。貴重品は全部こっちの袋にまとめてあります。あと、油性マジックは消炎剤をスプレーしてから拭くと、割と簡単に落ちます。間違ってもシンナーなんかで落とさないようにね。スプレー入れてありますから」
 戸部君が仕事の申し送りをするように、淡々と必要事項を述べた。
「野坂さん。おやすみなさい。楽しかったです。また飲みましょうね」
 のんびりとした靴音が遠ざかって行った。俺は遠藤君の首に巻きついたままだったので、戸部君に挨拶が出来なかった。あとでお礼のメールをしておこう。
「……さて」
 ひとつため息をついて、遠藤君が歩きだした。俺を抱えたまま。やっぱりスポーツ選手だなあ、逞しいなあなんて、一瞬うっとりとしてしまったが、明らかに異常なこの状況にはっとなる。
「あの……歩けるから」
 恥ずかしくて顔を見ないまま降ろしてくれと頼んだ。
「いいですよ。すぐそこだし。裸足でしょ」
「いや、でも、だって、ほら、あの」
 何が言いたいんだ、俺は。
「……まったく、困った人だなぁ」
「すみません」
 ふふっ、と遠藤君が笑った。髪に息がかかる。「困った」と言うわりに、その口調がとても楽しそうだったから、俺も笑った。



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