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明るいほうへ
16

 寝間着代わりのTシャツとハーフパンツを持って浴室に入った。遠藤君の申し出に素直に従ったのは、早くさっぱりしたかったのとは別に、もう一つ理由があった。
 お湯の温度を調節しながらゆっくりと頭を濡らす。固まった髪の毛は一回のシャンプーではほぐれなくて、二回洗ってやっと指が通るまでになったのを確認して、今度は体を洗った。浴用のナイロンタオルにボディソープをつけて擦る。酒を浴びた後、一度拭いていたからこちらはいつもどおりに洗っても大丈夫だろう。
 立ったまま泡を体全体に広げていきながら、部屋の様子を窺った。遠藤君がこのドアの向こうで俺を待っている。そう思っただけで体が熱を持った。 
 そっと手で触れる。「んっ」と、声が上がった。シャワーの音に隠れるようにしてゆっくりと手を動かす。肩口に顎を押し付けて、声を殺した。
 石鹸の泡が薄いフィルター代わりの役目をする。自分の手だということを忘れようとした。簡単だ。いつもしていることだった。部屋で待つ男のことを想像しながら、感じる場所を撫で上げる。焦らすようにゆっくりと、柔らかく。石鹸とは違うぬめりが指に触れた。
「……ぁっ……」
 我慢できずに腰を強く押し付けた。壁に凭れるようにしながら、今度は強く握って上下させた。
 仰け反る顔にシャワーが当たる。酸素の足りない魚のように喘ぎながら極みに導いていく。
 遠藤君
 遠藤君
 心の中で愛しい人の名を呼びながら、想像の彼の手に愛撫される。
「っは……ぁ……ん、んんっ」
 きつく綴じた目の奥で、彼が少し笑いながら俺を可愛がる。
 想像の中の遠藤君は、今は少し俺に意地悪だ。俺の好きな場所を知っているくせに、わざと焦らすようにはぐらかす。
 水音に隠しながら、息だけで彼の名を呼ぶ。
 目を閉じたまま、片方の手で自分の唇に触れ、なぞる。
 シャワーの音に紛れて聞こえる声に促されるように手を動かし、浸る。
 ――イキタイ……?
 想像の声に小さく頷くと、目の奥の遠藤君がニッコリと笑った。本当の彼はこんなとき、どんな表情をするのだろう。
 見てみたい。
 だけど……それは叶わない。
 心持ち強めた手の動きに合わせ、体を揺らし、快感に身を投じた。
「……うっ、……く」
 あっけなく果てた。いつもはもう少し自分でコントロールしながら時間をかけるのだが、部屋にいる彼を思えばそれはできなかった。もし、遅いからと様子を見に来られてはと思い、恐ろしさに青ざめる。
それなのに止められなかった。
行為の後はいつもこんな気分になる。解放感と、喪失感。自分は何をやっているのだという嫌悪感。彼を想像で汚してしまったことへの罪悪感。今日はそれにみじめさが加わって、俺はシャワーに打たれながら、ほんの少し泣いた。
 それでも一度解放してやったから、少し落ち着きを取り戻した。酒の匂いが洗い流されて、酔いもそれほどではなくなっていた。これなら平静に遠藤君に向き合える。
 部屋に戻ると遠藤君は雑誌を見ることも、テレビをつけることもせずに、行儀よく待っていた。もっとも正座をしていたわけではないが。
「なんだ、黙って待ってたの? テレビぐらいつければいいのに」
「あ、いえ、そんなに待たなかったですよ」
 普通の声が出て、遠藤君も変わりない。ばれていない。ほっとした。考えてみれば、俺も危ない橋を渡ったものだ。
「酔い、醒めた感じですね」
「うん。実際そんなには飲んでないんだ。匂いにやられただけ。強烈だったからね。なんか駄々っこみたいになって悪かった。ごめんね」
「いえいえ。さっきの野坂さんも可愛いかったですよ」
……そんな。可愛いだなんて。遠藤君。
 妄想モードになりかけて、それはまた今度にしようと自分を納める。「じゃあ、やりますか」と消炎スプレーをカラカラと振りながら遠藤君が俺の後に回った。Tシャツを潔く脱いで、遠藤君の前で体育座りをする。自分で一応背中も洗ってみたから少しは落ちたかと思ったが、石鹸で擦ったぐらいではまるで駄目だったみたいだ。
「こりゃあまた……随分派手な寄せ書きですね」
「そうなの? 俺、全然見えないからさ。なんて書いてある?」
「めざせ! 日本一、エースをねらえ! 橋本見参! 誰ですか? 橋本って」
 遠藤君が寄せ書きの一つ一つを指で辿りながら読み上げていく。
「誰だろ? 今日の中にいたんじゃないの? やだなあ、知らない人の名前が背中にあるの」
 あははと笑って遠藤君が次々と読んでいく。
「飛べ、飛べ、戸部! だって。あとはですねぇ……うんこ」
「ええーっ! やだなあ。そんなもんつけないでよ」
 本気で憤慨した。
 背中にうんこをつけられるなんて。しかも遠藤君に背中に付いたうんこを見られるなんて!
「その他は放送禁止用語ばっかりですよ。俺もこれはちょっと読めません」
 遠藤君がげらげら笑っている。なんだか凄いことが書いてありそうだった。遠藤君の口から放送禁止用語が出るなんて……聞いてみたいじゃないか。



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