INDEX
明るいほうへ
17

 消炎スプレーを吹き付けて丁寧に拭いてもらった。面白いように落ちるみたいだった。だからみんな気軽に落書きをしたのだろう。きっと彼らにとっては恒例行事なのだ。
「痛くないですか?」「冷たくないですか?」と遠藤君は何度も聞いた。痛みなんか全然なかった。だって凄く優しく拭いてくれていたから。冷たさは感じたけれど、添えられた遠藤君の手が熱くて、それに自分の顔も熱かったからこれくらい冷たい方がちょうどよかった。
 終わってみれば十分余りの時間で済んだ。多少はあとが残ったみたいだけど、毎日洗っていくうちに完全に消えるだろう。どっちにしても俺には見えない。それに、誰かに見られる心配だって全然ないのだから。背中にはっきりと『うんこ』と書かれているよりはよっぽどいい。
 あっけなかったなと、少し名残惜しい気持ちでありがとうとお礼を言ったら、まだです、と言われた。消炎剤は体温を奪うから広範囲に使うとよくないらしい。言われてみれば背中がスースーする。温かいタオルを用意してきて、今度は消炎剤をふき取ってもらった。優しく、丁寧に、何度も何度も。
 黙っていると息苦しくなってくるから何か話そうと話題を探した。テレビをつけておけばよかったと思ったが、まさか後輩に背中を拭かせておいて自分だけテレビを観るわけにもいかなかった。毎日一緒にいるくせに、いざ何かを話そうと思うとなかなか話題が見つからない。仕事の話もなんだか野暮だし、共通の趣味もない。第一、遠藤君が何に興味を持っていて、どんな本を読んで、どんな映画が好きなのか、何も知らないのだ。背中を拭かれながら「趣味は何ですか?」なんて質問するのは、あまりにも間抜けだ。
「……あの、直美ちゃんとは、どう? うまくいってる?」
 言うに事欠いてこの話題はないだろう、俺。聞きたくないし。じゃあ何で聞いてるんだよ。
「あー、別に……どうとも。普通、です」
「……ふうん」
「……」
 ほら終わっちゃった。普通、ってどうなの? 俺、普通わかんないし。
「野坂さんは彼女作んないんですか?」
 来たよ。これだよ。そうだったよ。彼女の話ふったら自分はどうなのよって聞かれるのは当たり前の話だ。
「作らない。作ろうと思って作れるもんじゃないし」
 この話題はこれで終わったはずだ。これ以上は突っ込まないでほしい。
「好きな人はいないんですか?」
「……」
 完全な黙秘。
「……最近、戸部さんと仲いいですよね」
 話が急に飛んだ。でもこれはありがたい飛び方だった。
「そう? そうかもね。あの子楽しいよ」
 戸部君は俺にとって貴重な存在だ。今こうして遠藤君に背中を拭いてもらえるのも彼のお陰だし。
「今日も楽しかったですか?」
「うん。楽しかった」
 背中で遠藤君が笑う気配がした。「遠足楽しかったですか?」と先生に聞かれた小学生みたいに元気いっぱいな声が出た。だって本当に楽しかったから。飲み会も新鮮で楽しかったし、何より遠藤君と試合観戦出来たし。今だってこうしていられるし……。
「戸部さん、やけに野坂さんに親切じゃないですか?」
「そうかな。あの子は誰にでもああだと思うよ」
「いや、そうでもないと思う。野坂さんに異常に懐いてる感じがします」
 思わず笑ってしまった。戸部君も同じことを言っていたよ。遠藤君が俺に懐いているって。思い出し笑いをいつまでもしていると、背中の圧力が少しだけ強くなった。
「遠藤君?」
「……懐いてるっていうか、もしかして……好きなんじゃないかな、野坂さんのこと」
 突飛な発想に驚いた。逆な立場だったらそれほどおかしくはない考えだとは思う。例えば遠藤君のことを戸部君が好きになるんじゃないかとか。でもそれは俺が遠藤君を好きだからであって、戸部君が同性愛者だと知っているからだ。
「そんなことないよ」
「そうですか?」
 確かに可能性としてはないこともない話だ。俺も、戸部君もゲイだから。でも有り得ない。だって彼には大好きな先輩がいるわけだし。
「あり得ないよ」
「わからないじゃないですか」
「あり得ない。あの子、ちゃんと恋人いるよ」
「そうなんですか?」
「そうだよ。大好きでしょうがないって感じだった」
「知ってるんですか?」
「まあ、うん」
 今日会ったとは言わなかった。今日会った人達の中に、女性は一人もいない。
 遠藤君が黙った。顔を確認できないから、何を考えているのかが分からなかった。納得したのか、まだ疑っているのか。



novellist