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明るいほうへ
18

「すごく仲がいいんだ。俺なんかが入る隙もないよ。そんなことは、絶対にない」
 今日一日見ていて思った。試合中も、飲んでいる最中も、戸部君の目はいつだって先輩を捉えていた。べたべたと世話をすることも、近くに寄り添うこともなかったけれど、透明な手がふわっと伸びていて、先輩を包み込んでいるようだった。先輩もそれをちゃんと感じているから、安心して離れていられる。俺はここにいるよ。ちゃんと見ているよ。わかっているよと語り合っているみたいだった。
 見ていて羨ましかった。羨ましくて 羨ましくて 羨ましくて……
 抱えた膝を引き寄せて顔を押し付けた。
 戸部君に会ってからの数日ですっかり感情の栓が緩んでしまった。固く絞っていた蛇口のバルブが壊れたみたいにだらだらと流れてしまう。持っていたTシャツに顔を擦りつける。ずずっと鼻をすする音が響いた。
 泣いたって仕方がない。わかっている。遠藤君が困るだけだ。何にもできないくせに。好きな人に想いを告げる勇気もないくせに。想像の中でしか恋愛が出来ないくせに。人の幸せを羨んで泣くなんてどうかしている。
 だけど、一度流れ出てしまった感情はどんどんあとからあとから溢れてきて、どうしようもなくだだ漏れ出した。
 ――付き合ってるんですか? いい雰囲気ですよ。
 ――いつか 出会えるといいですね。野坂さんを大事にしてくれる人。
 ――駄目なのかな、あきらめた方がいいのかなって。でも頑張りました。
 ――それが遠藤君だともっといいのにね。
 戸部君の言葉が蘇る。僕は世界一の果報者だと笑った彼の顔。それから遠藤君の笑顔。
 ――あ、野坂さん、俺に惚れちゃいました?
 ――駄目ですよ。俺、女一筋ですから
 どんなに一緒にいたってそれだけの関係。先輩と後輩。飲んで送ってもらっても、笑って見送られて彼は自分の家に帰っていく。まるで二人の住んでいる距離のようだ。毎日乗る沿線のように平行線のまま、決して交わることはないのだ。
 遠藤君が黙って擦ってくれている。その動きは拭きとるというより、慰めてくれているみたいだ。急に泣き出した先輩を持て余しているだろうに、理由も聞かずにただただ背中をさすってくれている。ああ、やさしいひとだなあって思ったら、また泣けてきた。蛇口が完全に壊れて水浸しだ。
「ごめ……っ」
 とにかく謝ろうと息を吸いこんだら「ふんがっ」と鼻が鳴ってしまった。自分で出した音にびっくりして突然涙が止まった。ああ、どうして俺ってこんな時まで間が抜けているんだ?
 一瞬の静寂のあと――爆発したみたいに遠藤君が笑った。
 横倒しになってお腹を押さえ、ひーひーと息をついている。そんなに笑わなくったっていいじゃないか。
 泣きすぎて頭の後ろに靄がかかったみたいだ。鼻の奥も鉄の味がする。
 笑い続ける遠藤君をぼんやりと眺めた。気まずい涙を笑いで納めようとしてくれているのがありがたかった。
 四つん這いになって、遠藤君の倒れているそばにあるティッシュを取った。やけくそ気味に大きな音をたてて鼻をかんだ。一度では足りなくて、またティッシュボックスに手を伸ばす。なんで泣くと鼻水まで一緒に出てくるんだろう。
 ようやく笑いを納めて起き上ってきた遠藤君は俺からTシャツを取り上げて、ぐしゃぐしゃになった俺の顔を拭いてくれた。涙から、鼻水から、涎から、全部をきれいにふき取ってくれる。黙ってされるままになった俺は本当に幼児みたいだ。どっちが先輩なんだか。
 顔からすべての水分を拭いとって、遠藤君が俺の顔を覗いてきた。きっと呆れているんだろうけれど、恐る恐る見返した瞳には、軽蔑も憐みの色も見えなかったから安心した。
「兎みたいだ」
 くっと、喉を鳴らして遠藤君が笑った。
「本当に、困った人だなあ」
 優しく落とされた声に、よしよしと頭をなでてもらっているような気分になって、俺は、スン、ともう一度鼻をすすった。



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