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明るいほうへ
19

 日曜日はボーっとして過ごした。
 前の日のいろいろな出来事を何度も何度も反芻して赤くなったり、にやついたり、突然ギャー、と叫んで部屋の中をぐるぐる回ったりした。夜のおかず百年分だ。
 月曜日に恐る恐る出社すると、遠藤君はいつもと変わらず「おはようございますっ」と挨拶してくれた。恥ずかしくて、しおしおになっている俺に「今日はあまり暑くないですね」「そろそろおでんの季節ですね」などと屈託なく話しかけてきた。一昨日の俺の醜態のことはおくびにも出さない。ああ、器の大きい人だなあ、とまた彼を好きになる。
 遠藤君の変わらない態度に便乗して、俺もあの日のことはなかったことにした。俺の器は幼児用のお茶わんよりも小さいのだ。
 そうやって変わらない日常を繰り返した。三人での仕事。三人での飲み会。
 少し変わったのは、遠藤君が以前と同じように俺たちとランチを取るようになったことだ。
 直美ちゃん弁当はいつの間にかなくなっていた。秋元君情報によると、二人はまだ付き合ってはいるらしい。彼は優秀な諜報員だ。
「遠藤もなんだかのらりくらりっていうか、直美ちゃんも次の作戦に入った様子です」
 女の子は飛び道具の他にも必殺技があるからなあ。
「煮え切らない遠藤の態度にちょっといらついているもようです」
 積極的な子は苦手なのか、遠藤君は引き気味の様子だ。
「一向に進展しない二人に新たなライバルが出現したようです」
 受付の佳子ちゃんが参戦してきたらしい。なんだか遠藤君らしくないなという感じがした。
「あいつ、昔からモテ男だから、案外動じないんじゃないですか? 女の子に囲まれているのが普通の状態っていうか。俺には考えられないけど」
 これは秋元君の談だ。納得できるような気もした。俺が一目惚れしたぐらいだ。女の子達が見逃すはずがない。モテるって大変だね、と秋元君と二人でため息を吐いた。ため息の理由は二人とも違っていたけれど。
 戸部君とも何度か会った。メール交換も続いている。あの日のお礼をして、事の顛末を話したら「なんだ、押し倒しちゃえばよかったのに」と過激な発言を事もなげに言われた。そりゃあ君ならできるかもしれないけれどね。先輩との交際は順調で、相変わらずラブラブらしい。秋元君も誘って、遠藤君と戸部君と四人で飲むこともあった。犬とキリンは馬が合うらしく、楽しい飲み会がまた一つ増えた。
 秋が深くなる頃から、三人チームの仕事の形態を少しずつ変えていった。責任の比重を移していく。そうして仕事を覚えさせ、やがて自立していき、また次の後輩を育てる段階に入っていくだろう。二人とも優秀だ。人を育てることは楽しかった。教えながら自分自身育っていく実感がある。
 この半年ぐらいの期間で、俺は改めて自分の仕事について考えるようになっていた。
 特に遠藤君に出会って、スポーツ医療について勉強し直したい気持ちになっていた。
 アスリートとしてその頂点に立とうとする人たちは、努力という作業の及ばない場所にすでにいる。その鍛錬は過酷なもので、それに耐えうる体を持っていることもまた才能だ。限界まで磨きあげ、酷使した果てにボロボロになってしまうことだって珍しくない世界だ。
 才能や環境に恵まれて育っていく選手たちの中で、故障のためにその志を断念せざるを得なくなってしまった人達。そんな人達がどれくらいいるのだろう。努力して、無理をしてその一握りの枠にこぼれてしまった人達はどうしているのだろう。また、才能に恵まれながらも正しい指導につけずに潰れていった選手達はいったいどれぐらいいたのだろう。
 手助けをしたいとか、力になりたいとか、そんな大それたものではないけれど、屈託なく笑う遠藤君の横顔を見ている時ふと、自分は何ができるだろうかと思うようになっていた。そんな風に思える自分が何となく誇らしくて、彼に出会えてよかったと神様に感謝した。
 そんな充実した毎日――直美ちゃんと佳子ちゃん、またその他のバトルはどうしたのかとヤキモキしていたことも事実だったけれど――を過ごしていた。その日も寒いから鍋でもつつきに行こうと金曜の街へくり出した。
 戸部君も来る予定だったのが急に来られなくなったと連絡が入って、秋元君が残念がっていた。俺に届いたメールには先輩が風邪気味なのだと書いてあったから、それじゃあ仕方がないなと思った。なんといっても戸部君の一番は先輩なのだから。
 鍋奉行と化した秋元君にすべてをお任せして、美味しい鍋を堪能した。遠藤君が鍋奉行の隙をついて、ひょいひょいっと俺の皿に美味しいところを入れてくれて、鍋だけじゃない温かい気持ちに浸った。いつもと同じ、楽しい夜だった。
 帰りも変わらず遠藤君が送ってくれた。俺の後に車を降りて、部屋に着くまで見送るのも変わらない。
「遠藤君、今度から見送らなくてもいいよ。大丈夫だから。お疲れ様。また来週頑張りましょう」
 他意があったわけじゃない。外は寒かったし、せっかく鍋で温まった体が冷えたら申し訳ないと思っただけだった。俺を見送る間、タクシーのメーターが上がるのもずっと気になっていた。
 遠藤君は一瞬、驚いたような顔になって、それからじっと俺の顔を見つめた。じゃあお休みと手を振って歩きだした俺の後を追うように二、三歩進んでそこで立ち止まる。動かない遠藤君にあれ? と思って振り返った。
「どうした?」
「野坂さん、最近車の中で眠らなくなりましたよね」
 まるでそれが気に入らないかのような口ぶりだった。



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