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明るいほうへ
20

「なんでですか?」
「なんでって……眠くないからじゃない?」
 だいたい今までだって半分は寝たふりをしていたのだ。寝たふりをして遠藤君の肩に凭れかかりたかったから。でも、あの日、彼の前で泣いてしまって以来、俺は自重していた。感情のタガがはずれてしまうのが怖かった。最近の自分が危ういのも自覚している。
 運転手が乗らないんですかと窓から首を出している。メーターが上がるのが気になって「ほら、遠藤君」と促したら、「いいです。行ってください」とさっさと精算してしまった。
 どうしたのかと遠藤君を見上げたら、きまり悪そうに下を向かれた。送らなくていいと言ったことが気に障ったのだろうか。もっとちゃんと説明をしようと口を開きかけたら、下を向いたままの遠藤君が先に話し出した。ぼそぼそと呟くような声で。
「今日は寝るかと思いました」
「なんで?」
「だって、今日ピッチが速かったから」
 そんな覚えはない。いつもと同じように飲んでいた。日本酒だったから少し抑え気味にしたぐらいだ。
「そう? そんなことはないと思ったけど」
「それに、妙にはしゃいでて、なんだか無理をしてるみたいでした」
 そんな覚えも全くない。だいたい俺は遠藤君といる時はいつだってはしゃいでいる。それが妙に見えたかどうかは知らないけれど。
「戸部さんが来なかったからですか?」
「なんで?」
 なんで戸部君が来ないと俺のピッチが速くなって、無理をして妙にはしゃぐわけ?
「だって、前に泣いたじゃないですか」
 突然あの時のことを持ち出されて言葉が出なくなった。遠藤君の言いたいことがさっぱりわからない。
「戸部さんに彼女がいるって、俺なんかかなわないって言って泣いたじゃないですか」
「ええっ?」
 吃驚した。確かにあの時戸部君の話をした。彼らが羨ましくて泣いてしまった。だけどそんな風に言った覚えがない。
「俺そんなこと、言った?」
「言いましたよ。戸部君楽しいって。彼女がいて、仲が良くて、俺なんかかなわないって」
 あの日のことは何度も何度も反芻していたから、すぐに思い出せる。だけど俺と遠藤君とではそのニュアンスが著しく違っていた。これじゃあまるで俺が戸部君に恋をしていて、でも彼には恋人がいるから俺じゃ駄目なのさ、と泣いたみたいじゃないか。
「なんか、無理して楽しいふりしなくてもいいんじゃないかって。俺、もし野坂さんがそういう……あれ、でも、別に隠す必要ないかなって思って……」
 楽しい振りなんかしたことないんだけどね。遠藤君にはそういう風に見えるんだ? そういうあれって、俺がホモかもしれないってこと?
「もし、一人で悩んでるんなら、その、俺とか……秋元でもいいけど、話ぐらいいくらでも聞けるし」
 人の思い込みって凄いなと思った。遠藤君の目にはそんな風に映っていたんだ。
 笑える。
 だから今日戸部君が来なかったから、俺の酒のピッチが速くて無理してはしゃいでいるように見えたんだ。
 本当、笑える話だ。
 俺の『遠藤君好き好き光線』は戸部君には見えるのに、遠藤君にはまるっきり効かなくて、あろうことか勝手に反射させて、あらぬ方向に弾き飛ばして見ていてくれたのだ。それで相談に乗るよって同情してくれている。
 こんな笑える話があるだろうか。
 あまりの可笑しさにその場にしゃがみこみたくなった。可笑し過ぎて、目の前の男に殴りかかりたいほどだった。
「そう。それで? 俺が戸部君のことが好きだとして、遠藤君は何が言いたいわけ?」
「え……」
 殴るのを我慢したら、毒が染み出してきた。
「あー、やっぱりホモだったんだ、って嬉しい?」
「そんなこと……」
「片想いはつらいですよねって、慰める? 話を聞いてくれて、それで何になるの? ああ、そうか、遠藤君はもてるからね。失恋ぐらい大したことじゃないですよってこと? 俺が可哀相だなって? 随分と優しいんだね。ああ、ホモに会ったら聞きたいことがいろいろあるんだっけ? なに? 答えられることなら何でも答えるよ。遠藤君の周りにはいなかったんだよね。そりゃ、珍しがられて面白がられたら嫌だもんね。きっと必死に隠していたんだと思うよ」
「俺、面白がってなんか……」
「じゃあ何なんだよ! 放っておけよ。君に話すことなんかない」
 叱られた子供のように固まってしまった彼は、俯いたまま動けないでいる。外灯に照らされた長い影が伸びていて、俺の足にかかっていた。
 彼を踏んでいるような気がして、一歩、後ずさる。頼りなげな薄い影がゆらゆらと揺れている。
「ごめん」
 最低だ。
「本当にごめん」
 何も悪いことをしていないのに。勝手に好きになって、叶わないからって八つ当たりして。
「心配してくれたのに……ごめん」
 影はそこから動かなかった。ゆらゆら、ゆらゆらと、心細げに立ったままだ。影の主にそっと目を移す。表情(かお)を見る勇気がなかったから視線は握られた拳の上で止まってしまった。
 その拳で殴って欲しかった。だけどそれも叶わない。彼がそんな理不尽なことをしてくれるわけがない。理不尽なのは俺だけなのだ。
「戸部君じゃないよ」
 せめて誤解だけは解いておこうと思った。これだけ酷いことを言っているのに、誤解されたまま嫌われたんじゃ辛すぎる。
「好きなのは……戸部君じゃ、ない」
 影が動いたような気がした。でもそれはきっと俺のさもしい願望だろう。それだけ言うのが精いっぱいだった。それ以上の言葉を重ねる勇気も、この場に留まる根性もない。
 少しだけ――ほんの少しだけ期待をした。だから、駆け上がりたい衝動を抑えてゆっくりと階段を上った。ドアの前で鍵を差し込む。影が追い付いてくる気配はなかった。部屋に入った後もドアに凭れたまま耳をすませた。やがて、遠ざかる靴音が聞こえ、そのあとは静寂が訪れただけだった。
 期待は少しだけだったのに、絶望は大きくて、ドアに凭れたまま、俺は長い間動くことが出来なかった。



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