INDEX
明るいほうへ
24

 二日酔いと体のだるさで最悪の朝だった。
 一度家に帰って着替えようと思っていたのに、結局ぎりぎりまで起き上がれなくて、やっとの思いでシャワーだけ浴びて、昨日と同じスーツのままラブホテルから出社した。我ながら大胆な行動だとは思ったが、どうでもいいやと思い直した。投げやりな気持ちは朝になっても続いていた。胸に開いた穴を埋めたいだけだったのに、一晩明けたらその穴はなにか鉛のような重たいもので塞がれていた。
 一目見て気が付いた秋元君が口を開きかけて、そのまま閉じた。俺の『何も聞くなオーラ』が通じたらしい。カラ元気を出す気力もない。
 彼の顔を正面から見ることが出来なかった。こんな態度を人にとったのは初めてだった。
 体中が痛くて動くのがつらかった。特に腰のあたりがずくずくしてどうしようもない。自業自得だ。
 遠慮しながら秋元君が「大丈夫ですか? 具合悪そうですけど」と心配してくれて「うん。ちょっと急に部屋の模様替えなんかやっちゃって、体中筋肉痛なんだ」と馬鹿みたいな言い訳をした。「そうですよね。あれって突然したくなりますよね」と話を合わせてくれる秋元君の横で、痛いぐらいの視線を感じていたが、一日中それを無視し続けた。
 仕事が終わって、今日はまっすぐに帰るよと告げた。早く一人になりたかったのに「家まで送ります。具合悪そうだから」とついて来られた。遠慮の言葉も、お礼の言葉も発するのが面倒臭かった。一日中責めるように見つめられ続けて、イライラしていた。得体のしれない黒い感情が腹の中でとぐろを巻いている。
 駅までの道も、電車の中でも無言を通した。彼も何も言わない。黙ってタクシー乗り場にたどり着く。もういいからと、ちらっと彼を見やったが、ドアが閉まる前に車の中へ滑り込まれた。シートに体を沈めたまま目を瞑って時間が過ぎるのをひたすらに待つ。
「……家の近くに小学校があるんですよ」
 それまで黙っていた彼が突然車の中で話しだした。
「まっすぐに帰る時はそこを通るんですけど、グラウンドで野球の練習してて」
 返事をしない俺にかまわず話し続ける。
「そこの子たちに、最近野球を教えてるんです。初めは一人だけだったんですけど、だんだん人数が増えて」
 返事はしなかったが黙って聞いていた。そうか、野球を教えているのか。
「毎週、木曜日。その日がみんな塾とか習い事がないから」
 心臓がバクンと跳ねた。
 野球? 野球を教えていた? それで早く帰っていた? 
 後悔の波が怒涛のようにせり上がって来て吐き気がした。
 俺はいったい何をしているんだろう。一人で早合点して、一人で傷ついて、その挙句に俺は何をした?
「昨日、聞かれた時に言えばよかったんですけど、なんだか恥ずかしくて……」
 本当だ。言ってくれればよかったのに。そうしたら俺だって、と責める言葉を飲み込んだ。
 関係ないのだ。木曜日の約束がなんであれ、俺には何の関係もない。俺と彼との関係はずっと平行線のまま交わることはないのだから。俺が単に馬鹿だっただけの話なのだ。
 アパートの前に着いて車を降りた。振り向かずに二階へ上がる俺の後を、今日は躊躇もせずについてくる。
「なに? なんでついてくるの?」
「部屋の模様替えしたんでしょ? 変わった部屋、見せてください」
 邪険な声音に負けない強い声だった。勝手にすれば? と肩を竦めて部屋にあがった。彼も俺の態度を無視してついてきた。
 入口に立ったまま、以前来た時と何も変わっていない部屋を見回している。構わず冷蔵庫を開けて、立ったままビールをごくごくと飲んだ。気が済んだなら早く帰って欲しい。
「昨日は何処に行ってたんですか?」
「新宿」
「誰とですか?」
「なんで?」
「前に言ってた、戸部さんじゃない好きな人と?」
 何を言ってるんだ、この男は? と今日初めて彼の顔を正面から見た。なんでそんなことを聞く? 戸部君じゃない好きな人? なんだそれ。
「一人で行ったよ。途中から一人じゃなくなったけど」
「……どういう意味ですか?」
 剣を帯びた彼の顔は見たこともないぐらいに強張っていた。
 なんで怒っている? 君には関係ないじゃないか。女一筋なんだろう? 俺に惚れないでくれって言っていたくせに。
 体中毒だらけになった気分だった。昨日の出来事も、明日からのことも、もうどうでもよくなっていた。なんでこんな話をしなきゃいけない? 消えてしまいたいのに、消えることが出来ないのなら、いっそ壊れてしまえばいい。
「どういう意味もないよ。一人で行って、途中から二人になっただけだ」
「知り合いですか? 待ち合わせして?」
「全然。知らないおじさんについていった」
 ぐしゃっと彼の顔が歪んだ。
「なんでっ。なんでそんなこと……」
「関係ないだろ」
「そんな馬鹿なことを……」
 馬鹿だと言われてカッと血が上った。わかっている。馬鹿なことをしたと思っている。今、胸の中は後悔でいっぱいだ。だけど、もう取り返しがつかないんだ。自分でやらかしたことなんだ。それを正面から責められるのに我慢が出来なかった。
「君には関係ないっ! 帰れよ! 帰れ!」
 持っていたビールを投げつけた。目測を誤った缶は彼の後のドアに当たって鈍い音を立てて落ちた。カランカランと空虚な音が響く。
 こんなに激昂したのは初めてだった。彼の前に立つといつだって自分が抑えられない。どうしてこうなる? なんでそっとしておいてくれないんだ? 中途半端に踏み込むな。お前のささいな一言に、お前のなんでもない行動に、いちいち動揺してしまうのに嫌気がさすんだ。自分がどんどん嫌いになっていくんだ。だからもう、俺に構わないでくれ。
 睨み合ったまましばらく動けずにいた。張りつめた空気を破ったのは、携帯から流れる着信音だった。
「……出ないんですか? 鳴ってますけど」
 促されて迷った。知り合い別に着信音を変えるなんてまめなことをやっていない。誰からの電話かわからなかった。ただ、一瞬、何故だかドウジマさんからではないかと思ったから、出るのに躊躇した。彼の前で会話をするほど厚顔ではない。
 迷っているうちにメロディが止まった。間髪入れずにまた鳴った。今度はメールを知らせる音だった。携帯を取り出して液晶画面を開く。戸部君からだ。ついでにさっきの着信は秋元君からだったことを確認した。考えてみればドウジマさんと連絡先の交換をした覚えはなかった。ひどく酔っていたから確信はできないけれど。
『今、秋元君と飲んでます。具合悪いんですか? 秋元君が心配してます。愛しの彼に介抱してもらったら? すぐ治っちゃいますね。また連絡します』
 なんとものんびりした文章に力が抜けた。ふんだんに散りばめられた絵文字が今いる状況とあまりにもかけ離れていて、思わず和んでしまった。戸部君のメールに心の中で答えてみる。愛しの彼に俺は今、暴言を吐いてビールを投げつけてしまったんだよ。



novellist