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明るいほうへ
3

 ビールを飲みながら目の前に座っている男を見つめた。屈託なく笑う笑顔がまぶしく感じる。居酒屋の照明だけではない明るい光が彼を包んでいるように見える。キラリーン、と効果音まで聞こえててくる。相当重症だなという自覚はある。
 一目惚れだった。
 入社してきた若い五人の中、ひと際目を引く身長。スポーツできっと鍛えたのだろうと想像できる体躯に乗った爽やかな相貌。意志の強そうな太い眉に、切れ長の瞳。引き結んだ厚い唇から「よろしくお願いします」と低くも高くもない、俺の理想の声とともにまっ白な歯が覗く。
「甲子園球児だったんだぞ」
 甲子園に常連で出場している学校の名前を挙げて、部長が自慢げに遠藤久裕君を紹介した。そこでレギュラーだったんだと言うと、周りがへえーと感嘆の声を上げた。恥ずかしそうに頭をかいている顔は、謙虚ながらも誇らしげに輝いていた。なにかを徹底的に頑張り通した誇りを持った男の顔だった。
 まっすぐに太陽の下を歩いてきた人なのだと思った。俺が憧れてやまない日向の匂いがした。
 健康機器メーカーである、うちの社に営業として配属されてきた遠藤君の担当は、二期上の俺に回ってきた。ラッキーだと思った。それこそ骨身を惜しまず仕事を教えた。これほど真剣に人を指導した経験はなかった。そんな俺の努力の甲斐あって、遠藤君は俺にとても懐いてくれた。彼にとって俺は尊敬すべき先輩なのだ。
 だから俺のホモ疑惑も憤慨してくれたのだろう。それは嬉しい。ついでに言うと、その疑惑で遠藤君が俺を恋愛対象として見なおしてくれたら……なんて淡い期待だった。瞬間期待して、瞬時に玉砕。まあこんなもんだ。
 慣れている。ノーマルに恋をして失恋するなんて、今までだってどれだけ経験したことか。でも慣れたからといって、傷つかないわけではない。
 寂しい夜もある。というか、夜はいつだって寂しい。だから強くもない酒を飲むのだ。
 都心に行けばそういう出会いの場があることだって知っている。自分と同じ、男しか愛せない人とお気軽に出会って愛を確かめ合う。もともとの人口が少ないのだから、初めにそういう出会いから始まることだってあると解っている。
 だけど、俺は好きになった人と抱き合いたいのだ。
 はじめに心があって、その後にお互いに触れ合いたいのだ。
 だから、俺は未だに童貞だ。キスすら経験がない。
 高らかに女一筋だと宣言した遠藤君が羨ましい。俺だって遠藤君一筋だ。高らかに言えないのが残念だけど。
 せめて尊敬できる先輩でいたいな、と思う。
「野坂さーん。そろそろ着きますよ?」
「うー」
 尊敬する先輩は、タクシーの中で後輩の肩に凭れて寝入っていた。
 酒の弱い俺をアパートの前まで送ってくれるのが遠藤君の役目だ。二人の使用する沿線は別だったが、俺の住むアパートと遠藤君の家とは、並行する線路を縦に繋げたらとても近い距離になる。飲んでの帰り道、別れる筈の路線を遠藤君はわざわざ俺の使う方へと乗ってくれて、最寄りの駅から俺の家まで送ってくれるようになっていた。これもラッキーだ。酒に弱くてよかったといつも思う瞬間。至極の時間だった。
「いつもすまない」
「いいですよ。今日御馳走してもらったし。ゆっくり休んでください」
 これが女なら「ちょっとお茶でも」と誘う場面なのだが、できる筈もない。そうしたところでそのあとのことに及ぶ度胸もないし。
「ありがと。また来週から頑張りましょう」
 そう言ってタクシーから降りて部屋に向かう。ふらふらと二階の部屋に辿り着いて、おぼつかない動作で鍵を開けて中に入るまで、体育会系の彼はタクシーから降りてずっと見ていてくれる。大丈夫かな、大丈夫かなと見守ってくれている間、遠藤君は俺だけのものだ。ドアを閉めながら小さく手を振ると、安心したように手を振り返して遠藤君が笑う。
 一人の部屋はいつも寂しいけれど、遠藤君に送ってもらったその日だけは、ほっこりと胸が暖かくなって、幸せな気分で眠りにつくことができるのだ。



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