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仰げば蒼し
17
「そんなこと言わないよ。そんな、あんなちょっとした喧嘩ぐらいで」
 吃驚している俺の顔を眺めて、遠藤君が泣き笑いみたいな顔を作る。
「本当?」
「うん。言わない」
「よかった」
 また抱きしめられた。
「野坂さん、『いつもこうやって前の彼女と仲直りしてたのか』って言ったでしょう」
「うん。言った」
 嫉妬が言わせた言葉だったけど。
「俺、仲直りしたことないんですよ」
「そうなの?」
「うん。喧嘩したら、そこで別れてた」
「……そうなの?」
 俺ってば、もしかしてものすごく危ない橋を知らないうちに渡っていたのか?
 俺にとっては些細な言い争いでも、遠藤君にとっては決定的な喧嘩だったんだろうかと、愕然とする思いだった。
「機嫌とるのとか面倒だったし。喧嘩したんならもういいやって」
「……遠藤君」
 秋元くんの言っていたのはあながち間違ってはいなかったんだ。
「次の彼女もすぐできたし」
 遠藤君は爽やかに鬼畜だった。
「君、モテすぎだよ
「だから、一昨日あんなふうになって、俺、どうしようって。すごく悩みました」
「悩んだの?」
「死ぬほど悩みました」
 恋愛スキルに長けている遠藤君は、その恋愛を持続させるスキルは持っていなかったらしい
「俺も、あのあとちょっと考えた。部屋から追い出すようなことをして悪かったよ」
 俺が謝ると、遠藤君は犬が濡れた体から水を飛ばすように、ブンブンと首を振っている。
「怒ってないならいいです」
 そしてまた抱きしめてきて、小さな声で「……嫌わないで」と言った。
「あのさ。そのことなんだけどさ」
 そのまま一昨日の続きに突入しそうな勢いをとどめて、俺は遠藤君から体を離し、もう一度顔を見返した。
 遠藤君は余程懲りたのか、俺の言うまま、首を傾げて次の言葉を待っていた。
「遠藤君は、俺に何でも言えって言うよね」
「はい」
「言葉が足らなくて、誤解されるの嫌だからって」
「言いました」
「で、遠藤君は俺に言いたいことはないの?」
「ありません」
 即答だった。
「あるだろ?」
 強く見つめ返して言うと、遠藤君は情けなさそうに眉を下げて、目を反らした。
「俺、自分のことでいっぱいいっぱいでさ、先輩なのに甘えるばっかりで悪かったんだけど」
「そんなことないです」
「遠藤君が、あのこと……気にしないって言うから、そのまま鵜呑みにしてたんだけど」
「それでいいです」
「よくないんだろう?」
「……」
 目を反らした遠藤君は、少し口を尖らせて、拗ねたようにソッポを向いている。
「……俺、すんげえやきもちやきで」
「ああ。うん」
 それは知っている。
「なんか、自分でもどうかって思うぐらいやきもちやきで」
 嬉しいけど。
「本当は……すげぇ、腹立って」
 もう一度俺を抱きしめてきた遠藤君は、俺の肩に顎を乗せるようにして、顔を見せないまま、自分の気持ちを語っていた。
「俺の自業自得だし。そんなん腹立てても仕方ないって分かってるし、俺だって人のこと言えないし」
「うん。そうだね」
「でも、嫌だったの! 他の奴が充に触ったって思ったら、すんげえ嫌で」
 俺の肩の上の声が苦しそうに叫んでいる。
 嫌で嫌で、腹が立っているのに言えずにいたあのときの気持ちを、ずっと抱えていたと遠藤君は告白した。
「腸煮えるって言うんですか、あれ。モツ煮が出来そうなくらい」
「凄いね」
「うん……でも充、あのとき泣いてたし、自分責めて泣いてたから」
「ごめん」
「本当、いいんです。もうしないなら」
「しないよ。絶対」
「うん」
 肩に顔を埋めたまま、遠藤君がくふん、と鼻を鳴らした。
「遠藤君」
「はい」
「ごめんな」
 肩に乗ったままの遠藤君の頭を抱きしめた。
「言えなくしてごめんな」
 俺があのとき涙を見せなかったら、遠藤君はその場で怒れたのだ。
「もうしないから。絶対」
「うん」
 怒って、馬鹿なことをした俺を責めて、それから
「過ぎたことだし。……許す」
 それから許すことが出来たのに。
 先に泣いてしまった俺を責めることも出来ず、許すことも出来なかったんだ。
 自分の中に秘めて、ずっと苦しんでいたんだろう。
「他には?」
 俺が促すと、遠藤君は「うん」と声を出して、「それに」と、まだ溜めている続きを話始めた
「秋元なんか、あいつ絶対充のこと狙ってるし」
「そんなことないよ」
「いや。狙ってるんですよ。俺には分かる」
「あり得ないって」
「それに」と、まだ続く。
「戸部さんも信用できないし」
「遠藤君?」
「だってあの人、充を風呂に入れようとしたんですよ。油断ならないじゃないですか。この前だって充のほう見てずっと笑ってたし」
 いやそれは、遠藤君を見て笑ってたんだと思うよ、彼は。
「みんなで狙ってる節がある」
「遠藤君、俺、そんなにモテないから、心配し過ぎだって」
 遠藤君の心配事は、海よりも広く繰り広げられているらしかった。
 本当にそんな心配は微塵もないのに、遠藤君は「充は自分が分かってない」と頑なに言っている。
「でも、そういうのあからさまに言うと、心の狭いやつだって思われるのがいやで、我慢してました」
 態度にはあからまさに出ていたような気がするけど、遠藤君的には随分我慢していたらしい。


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