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仰げば蒼し
18
「それに」
 と、まだ続く遠藤君。
「……まだあったんだ」
「俺、年下だし。なにやっても充には敵わないし」
「そんなことないよ」
「なにもかも中途半端で終わって、なのに、独占欲だけやたらと強くて。こんなんじゃ、いつか捨てられる……」
「そんな馬鹿な」
 俺が遠藤君を捨てる?
 そんな馬鹿なことがあるわけがないのに、遠藤君は俺の肩に顔を埋めたまま、小さく嘆いた。
 不安で仕方がなかった遠藤君は、俺の過ちに腹を立て、些細なことに嫉妬し、でも、それを知られるのが怖くて、ずっと我慢をしていたのだ。
 肩に張り付いている遠藤君を放し、その顔を覗いてみる。
 バツが悪そうに目を反らした遠藤君は、俺が笑いかけたら、安心したようにして笑った。
 このときに気がついた。
 俺は遠藤君のことが大好きだけれど、もしかしたら遠藤君も、俺が想像するよりずっと強く、俺のことを好きでいてくれたのかもしれない。
 人を思う気持ちは競争ではない。俺の方が好きだとか、俺の方が苦しいんだとか、そんなことを理由にして、俺の方こそが逃げていた。
 モテるから、恋愛を多く経験しているからといって、傷付くのが自分だけだなんて、何を怖がっていたんだろう。
 目の前で自信なさげに俺の機嫌を伺っている遠藤君の目は、こんなにもまっすぐに俺が好きだと訴えてくれているのに。
「他にはない? 言いたくて言えないでいること」
 俺がそう促すと、遠藤君は迷ったようにして、また目を泳がせた。
 どうやらまだあるらしい。
「この際だから聞きたい。聞かせて」
「……呆れない?」
「呆れないよ。聞きたい」
 しばらく考えていた遠藤君は、やはり小さな声で告白してきた。
「……充と一緒に住みたい」
「遠藤君の部屋に?」
「どこでもいい。二人で探して、部屋を借りてもいいし」
 前から一緒に住もうとは誘われていたけど、そこまで切実に願っていたことも、今初めて知った。
 遠藤君は俺の顔を覗き、それからぽつぽつと話し出した。
「夢を、見るんだ」
「夢?」
「怪我した時の……夢」
 彼が何を言おうとしているのか、見当もつかない。夢? 夢の話? 
「三塁に俺がいて、走ろうとしてるのを止めようとして」
「うん」
「でも俺は走っちゃって」
「うん」
「で、目が覚める」
 ……さっぱりわからない。
「起きると、俺の中から……野球が消えてる」
「……遠藤君」
「全部だったから。俺の全部が野球だったから。あの三塁から先、ホームベースに戻れなくて……そのあとの記憶もないんだけど。目が覚めたら、野球がなくなってた」
 この辺がね、と胸の辺りをさして「ごっそりなくなってる」と大きく円を描いて言った。
 照れくさそうに幽かに笑う顔が、笑っているのに泣き顔に見えた。
「今でもよく見るの?」
「……たまにね。見ると、やっぱりつらくて。ああ、俺はもう野球ができないんだって、何度も思い知らされる。知ってるよって言ってんのに、しつこく念押されてるみたいでさ」
 それは……恐怖だろうと想像する。わかっていて、それでもなお繰り返し打ちのめされるのだ。
 夢を見ただろう夜の、俺を呼んでいたあの声が蘇る。途方にくれながら、体を丸めて耐えていた姿が浮かんだ。
「でも充がいてくれると、少し楽になる」
「俺がいると、見なくなる? その夢」
 遠藤君は小さくかぶりを振った。
「見なくはならない。たぶん、これからも。でも、いてくれると……すぐに戻ってこれる」
 彼の負った傷は彼だけのものだ。俺がいくらそばにいても傷自体はなくならない。それは理解できるような気がした。
 俺自身も自分の不安をいくら大丈夫だと言ってもらっても拭うことが出来ないのと同じなのかもしれない。
 遠藤君はそれを知っていた。だから、俺が持つ不安を包もうとしてくれていたのだ。ゆっくりでいいよと見守ってくれていたのだ。
 失う恐怖を知っていたのは遠藤君の方だった。
 それなのに、俺は何も失う前から怖い怖いと自分を守ることしか考えていなかった。恋愛をしていれば、お互いを想う気持ちは対等なはずなのに、自分の想いの方が強いのだと勝手に思い込んでいた。俺が遠藤君を失えば、彼だって同時に俺を失うんだということを考えなかった。
 夢を見ただろうあの夜、俺を抱きながら大丈夫だと言ったのは、自分自身に向かって言い聞かせていたのかもしれない。
 本当に強い子だ。
「情けないですよね。いつまでも引きずって」
 術後のリハビリの過酷さを俺は知っている。もう歩けなくなってもいいと投げ出す人がいるぐらい、辛くて、痛いものだと知っている。
 励まされ、己自身を叱咤してそれを乗り越えるのは、その先に希望があるからだ。
 だけど遠藤君はリハビリの先に絶望があるのを知っていて、治っても決して元通りになれないのを知っていて、それでも頑張ったのだ。彼の今の肉体を見ていればわかる。
 なんて強いんだろう。だけど、強くて、強すぎて――哀しかった。
 弱音を吐かずに自らの傷を縫った縫い跡は、大きすぎてあちこちがギザギザに破けてしまっている。そのギザギザが夢を見せる。大好きな野球を失ってしまったという絶望が夢となって彼を苦しめているのだ。
『ごっそりなくなった』といった胸に手を当てて、空いてしまった穴に新しい何かを埋めてあげられないだろうかと考えた。



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