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仰げば蒼し
19
「……今日の試合、本当によかった」
 掌をそっと押しつける。
「子供たちにも今日の記憶はきっと宝になる」
 なって欲しいと思う。
「ヨシ君のバッティング、あれは遠藤君が教えたものだ」
「充……」
 当てた掌をすこしずつずらしていく。
「ダイ君のピッチングも変わってきている。あの子の精神はチームを動かすね」
 そうさせたのも遠藤君だ。
 掌がゆっくりと一周する。
「ナオキ君、笑ってた。楽しそうだった」
 たったの数か月なのに、俺の中にもファイターズの記憶が降り積もっている。
「練習の時のお握り、美味しかった」
 青空、土手から吹く風、砂埃の匂い、歓声、バットの金属音、それから――
「ああ、なんだ、やっぱり野球でいっぱいになった」
 一周した掌が元の位置に辿り着く。
「それから……このへんに」
 俺も、ちょっとだけ入れて欲しい。
 辿った円の真ん中にそっと手を置く。
 我ながら謙虚な考えに、ふふっと笑いが漏れる。
 笑いながら見上げたら、不思議そうに俺の言うことを黙って聞いていた遠藤君が見返してきて、
 それから、花がほころぶように、ふわっと笑って――瞬いた瞳からコロンと一粒涙が落ちた。
 続けてもうひとつ、笑った顔のまま、またひとつ、コロン、コロンと落ちていく。
 お天気雨みたいな涙は、大きくて、丸くて、ビー玉みたいに綺麗だった。
 あんまり綺麗な涙だったから、取っておけないかな、なんて馬鹿なことを考えて掌に受け止めたら、遠藤君がその手を握った。
「……充は、本当にすごいな」
 溜息混じりに呟いて、濡れた掌にそっと口づけをされた。
「ね、遠藤君の少年野球時代はどんなだった?」
 今までは遠藤君の過去の野球に触れるのがタブーのような気がして聞けなかったけれど、俺は知りたいと思った。遠藤君がどんな少年時代を過ごして、どんなに凄い選手で、どれだけ野球が好きなのかを知りたかった。
「ナオキ君より巧かった?」
「……当たり前でしょう
 ナオキ君のバッティングをもう一度褒めたら、憮然として俺の方が凄いと言われた。子供にまでやきもちを妬いている。
 それからいろいろな話をした。リトルリーグ時代のこと、ノーヒットノーランを成し遂げた時のこと。逆転ホーマーを打った時のこと。甲子園でベスト四になってインタビューを受けた時のこと。怪我をして――空っぽになった時のこと。入院中の病室が花でいっぱいになったこと。ノンプロに誘われたけれど、断ったこと。
 俺も自分の話をした。実は案外な腕白で、中学を卒業するまでに、骨折を三回やっていること。度胸試しで二階から飛び降りて親にこっぴどく怒られたこと。隣ん家の犬に眉毛を書いて庭の柿の木に縛り付けられたこと。遠藤君は笑って聞いていた。子供の頃のいたずらはすべて初恋の親友と一緒にいたくてやっていたこと――は言わなかった。
 そして今、遠藤君は子供たちに野球を教えるのが楽しいと言った。難しいけど楽しいと。
「でも、やっぱり実力の差がどうしてもあるから、試合に出る子が限られる」
 レギュラーを育てるよりも、補欠に教える方が難しいと言った。彼らだって補欠になりたくて野球をやっているわけではない。一軍と二軍に分けてやったらどうかという意見も出ているそうだ。それぞれが試合を経験できるように。いい案だと思うけれど、遠藤君はなんだかそれも違うような気がするという。やっぱりチームは一つでないといけないと。
「俺、補欠の気持ちが分からないから」
 自慢で言っているのではないとわかる。本当に悩んでいるのだ。
「この前、高校の先輩に会ってきたでしょう?」
 少年野球に携わっているという先輩だ。
「俺、あの人からレギュラー奪ったんですよね」
 ピッチャーからショートに転向したとき、遠藤君の前にレギュラーだった先輩は、彼の連絡に喜んで応えてくれて、会ってくれた。そして「お前がこういう形で野球やってることが嬉しい」と言ってくれたそうだ。心配していたのだと。
「俺、あの頃本当に傲慢で、強いほうが勝つのは仕方がないって思ってて。でも先輩もやっぱり野球が大好きで、二人で続けて行こうなって。どこかで対戦出来たらいいなって笑って言われた」
 はにかんだように笑う顔が秋晴れみたいだった。
「野球やってた時に充に会ってたら、どうなってただろう」
 遠藤君がもしもの話をした。過去を振り返って後悔する『もしも』ではなく、幸せな『もしも』の話。
「どうだろ? 俺はやっぱり遠藤君のファンになってたと思う」
 ストーカーになってたりして。
「俺は、充に夢中になって、心配で野球どころじゃなくなってたかも」
「そんなことないよ。俺がちゃんと健康管理やってあげてさ」
「だって遠征とかあるんですよ。置いていけないし」
「じゃあ、ついていく」
 バカップルの他愛ない楽しい話が続く。戸部君が聞いたら腹を抱えて笑い転げることだろう。
 話のバカバカしさに二人同時に噴き出して、それからキスをした。
「充……」
 それが合図のように遠藤君の声音が変わる。
 俺はまだ楽しい話の雰囲気を引きずっていて、全然関係ない話を思い出した。
「あのさ、ファイターズのお母さんたちで『遠藤コーチファンクラブ』があるの、知ってた?」
 何を言い出すのかと俺を見て、遠藤君が話を無視して俺の体を引き寄せたから、ふうん、知ってるんだと理解した。そうだ。彼は自分に対する好意に敏感だったんだ。
「……なにか言われた? プレゼントされたとか」
 引き寄せられた体をまた放してしつこく聞いたら、遠藤君は困ったようにして「俺、一週間お預け食ってるんだけど」とまた引っぱられる。
「あのさ。俺もひとつ遠藤君に言いたいことがあるんだけど」
「はい。なんでしょう」
 遠藤君は胸に溜めていたことをすべて吐き出し、すっきりとしたらしく、いつもの余裕を取り戻したみたいだった。鷹揚に俺の話を聞こうと耳を澄ましている。
「俺、言われてない」
「何をでしょう」
「だから、その……遠藤君に『好きだ』とか、そう言う具体的なこと、言われてない」
 実はずっと思っていた。この人そういうこと口にしないなって。
 俺は告白したのに、遠藤君には言われていない。……別にこだわっているわけではないんだけど。
 他のことには大胆なのに、俺にはいろいろと言わせるくせに、遠藤君はそういうことも口にしないのだ。




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