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遠藤の苦悩
6

 一緒に暮らしたいな、と思う。
 週末のデートだけでは足りない。
 充に何度も引っ越しを提案しているが、なかなか承諾を得られない。新しく住まいを探してもいいし、遠藤の部屋に来てもらってもいいと思っている。
 今住んでいるマンションは都外に転勤した親と住んでいた賃貸の2LDKだった。高校、大学と寮暮らしをしていたから、就職してこっちへ移ったのと同時ぐらいに両親と入れ替わった。
 二人は転勤先の土地が気に入って、そちらへ永住するつもりらしいから気兼ねはない。
 付き合い始めの頃は今まで通り、充を部屋まで送ってそのまま泊っていくパターンを続けていたが、だんだんと不具合が生じてきた。
 繊細で臆病な恋人は生活に関しては割と頓着がない。学生時代から住んでいるという一間のアパートはかなり古い。本人は愛着があるらしく、遠藤もそれ自体は全然構わないのだが、問題は壁が薄いことだ。
 ある時、いつものように濃密な週末を充の部屋で過ごして、二人で出勤した朝、先に外へ降りていた遠藤を充が呼んだら、郵便受けを開けていたOL風の女性がまじまじと遠藤の顔を確認した後に、真っ赤になって一目散に走り出した。
「あれ、今の人、隣に住んでる人だ。知り合い?」
「……いえ」
 たぶんこちらが知らなくても、向こうが名前を知っているのだろう。
「なんだか遠藤君に見とれてなかった?」
「そうじゃないと思いますけど」
「遠藤君もてるからな」
 可愛いやきもちを妬いてくれている横で、うーむと考え込んでしまった。
 事実を知ったら、多分充は遠藤を絶対に部屋に上げてくれなくなるだろう。それは困る。 
 そのうえ、あの最中に声を殺す癖などついてしまったら最悪だ。
 充のあの時の『遠藤君』と呼ぶ声がこの上なく好きなのだ。
 それでもご近所に聞かれているとわかっていて、ことさらに鳴かせるほど悪趣味でもないつもりだ。だいたいあの声だって自分だけのものなのだ。あんな可愛い声を自分以外の誰にも聞かせたくない。
 それ以来、なにかと理由をつけて遠藤は自分の部屋に充を連れ込んでいる。
 別段疑う様子もなく素直に遠藤の部屋で寛ぐ充に、なんとか気に入ってもらって、よければ居着いてくださいと再三お伺いを立てているのに、なかなかうんと言ってもらえない。
 怖がっているのだと思う。
 あまりに親密になりすぎて、それを失った時の恐怖を先に感じて前に進めない。
 しっとりと汗ばんで、遠藤の手に吸いつくように合わさってくる肌の感触を楽しみながら、自分の付けた所有の印を確かめていたら、充が笑った。
「憧れのコーチが朝からこんなだって知ったら、ヨシ君達びっくりするよ」
 ヨシ君は久裕が教える野球チームの生徒の一人だ。
 春から正式に野球チームのコーチを引き受けることになった。今日はその試合第一回目だ。
「試合……楽しみだ……ね」
 遠藤の愛撫に恍惚となりながら、充が切れ切れに今日の試合を口にする。
「うん。……勝てないだろうな。初めぐらい、勝たせてやりたいけど」
 弱小なのだ。下手なのだ。そんなに下手で楽しいか? と聞きたくなるほど、くそがつくぐらいに下手なのだ。
「負けるのは、悪いことじゃないよ」
「そう?」
「うん。悪いことじゃない」
 考えてごらんよ、と恋人が甘く囁く。
「最後に勝つのはいつだって一つだけだ。その他のチームは必ず一度は、負ける」
 理屈はそうだと思う。だけど、負けるよりは勝つ方がいいに決まっているじゃないかと疑問に思った。
「勝ち続ける人なんていないんだから。みんなどこかで負けるよ。その時に、頑張ったって泣ける負け方がいい。やっぱり負けちゃったって笑うのは、駄目だ。コーチがそれじゃ駄目だ」
「充……」
「かっこよく負けるのは、勝つよりも難しいよ……んっ……ぁ」
 ああ、どうしてこの人はいつだってこうなのだろう。自分の考えにも及ばないことを教えてくれる。いつも目から鱗が落ちまくりだ。
「それに……俺、嫌いじゃないよ。遠藤君に負けるの……んっ」
 潤んだ瞳で顔を覗きながら、恋人がいたずらっぽく笑った。
「俺は……あなたに勝ったと思ったことなんて……一度もないですけどね」
「あ……っ、あ……」
 遠藤の問いかけに答えはなかった。聞こえるのは自分の手によってとろとろに溶かされた甘い喘ぎ声だけになった。



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