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遠藤の苦悩
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 遠藤の父親は消防職員でレスキュー隊に所属していた。母も学生時代はソフトボールの選手をしていて、その時代にもし種目があったら間違いなくオリンピック選手に選抜されていたという。
 そうした両親の間に生まれた遠藤は、肉体、環境、才能とういうすべてに恵まれて育っていた。
 小学校に入って地域の少年野球チームに入った。九歳になるのを待って、前から声のかかっていたリトルリーグへ入団をした。全国出場は常連の、海外遠征でも活躍をする強いチームだった。五年生の時にすでに一六〇センチを超える体格を持っていた遠藤は、中学へ進学してリトルシニアへそのまま移行し、卒業するまで不動のエースピッチャーで、チーム始まって以来の天才だといわれた。高校も全国から彼を欲しがる声が上がり、その中でも甲子園の常連と呼ばれる学校に奨学生として鳴り物入りで入学をした。
 二百人を超える野球部員の中で、二年生の時にはベンチ入りを果たし、正選手として春夏合計三回の甲子園出場を経験し、三年の春はベスト四にまでいった。
 初めの挫折は高二の時だった。プロのスカウトにこのままではプロでは通用しないとアドバイスをもらい、フォームを改造した。
 自分も周りも当然プロへ進むことを視野に入れてのことだった。
 しかし、長年染みついたピッチングフォームを専門家の指導もなしに改造したつけが、あるとき腰に回ってきた。崩れてしまったフォームは改善どころか体を痛める結果となり、遠藤はピッチャーからショートへとポジションを変えることになった。
 それでもレギュラーからはずれることなく続けられたのは、努力と、恵まれた野球センスがあったからだ。熾烈なレギュラー争いに明け暮れた高校生活だった。
 二度目の挫折は大学三年の時。大学対抗戦に出場していた遠藤は、その試合で選手生命を断たれる決定的な怪我を負った。
 あの日、遠藤はショートの五番として初めから試合に出ていた。七回の裏、三塁に出塁していた遠藤がホームに戻れば逆転の場面だった。
 味方が三遊間に打って、一気に走りだした。楽勝でホームインするはずが、打球が予想外に早く飛んで、相手のグラブに収まったのを目の端に捉えたのを憶えている。
 真っ直ぐにホームへと返ってくるボールとの競争だった。微妙なタイミングとなった。  
 キャッチャーがこちらへと向き直るのを避けようと右に回り込んだ時、それが起こった。
 ブチっとどこかで音がしたような気がした。急に足に力が入らなくなり、体が大きく傾いだ。それでもホームに滑り込もうと手を伸ばす。キャッチャーが必死の形相で遠藤に当たってきた。
 弾き飛ばされた自分に驚いた。これぐらいのアタックで飛ぶような体ではないはずだった。
 ああ、アウトか! そう思ったところまで憶えている。くそっと見上げた空が不思議と青くなかったことも。
 白く霞んだ空は次第に赤黒く染まっていった。
 目が覚めた時は病院のベッドの上だった。
 右アキレス腱断裂。内側側副靭帯及び、半月板損傷の大怪我だった。
 滑り込む時にすでに怪我を負っていた上、不自然に捻じれた膝の上に相手が倒れこむという最悪の形となった。
 あの日のあの瞬間を今でも夢に見ることがある。
 自分の姿を外側から見ているもう一人の自分がいて、それがとてもリアルだった。
 走っていく自分に必死にやめろと叫んでいる。
 何度同じ夢を見ても、何度同じ場面で叫んでも、決して夢の結末は変わらない。
 手術と入院とリハビリで残りの大学生活を送った。膝に爆弾を抱える体は、今後、過酷な運動は出来ないと宣告された。プロへの道は閉ざされた。
 なぜ自分が、自分だけがと何度も考えた。
 あの時スライディングしていなければ、回り込もうとしなければ、あの時フォームを改善しようとしなければ、そもそも野球ではなく別のスポーツを選択していれば……。
 たくさんの過去のもしもに縛られた。それでも一応立ち直れたのは、家族やチームメイトの励ましと、自分はこれだけのことをやったのだという自負だった。
 周りもそう言ってくれた。胸をはっていいのだと。
 自棄になって周りに当たらなかったのは、元来の負けず嫌いで、人に弱みを見せることが出来なかったからだ。
 だから、平気なふりをした。俺はこれだけの功績を残した。だから悔いはないと自分自身に言い聞かせた。
 それが澱となって奥深くに沈んでいたことに気が付いたのは、充と出会ってからだった。



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