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遠藤の苦悩
8

 仕事からの帰り道、暗くなった空き地の隅で毎日素振りの真似事をしている小学生がいた。
 それがヨシ君だった。
 真似事と呼べるぐらいに稚拙なものだった。通りすがりにちらっと見てすぐに「ああ、こりゃ駄目だな」と思った。小さい体がバットに振り回されるようにして泳いでいる。振る瞬間に上がりきった顎と、伸びきった腕は見事なアッパースウィングで、球が当たるどころか、何かの間違いで当たったとしても、フライがせいぜいのお粗末さだった。練習を積んでどうなるものとも思えない。踏んばる足も、とても速そうに見えなかった。
「早く見切りをつけてやめたらいいのに」と、足を止めることもなく通り過ぎる。毎日あんな素振りを続けていることの方が不思議だった。
 それが変わったのは充の言葉だった。
 あの頃、決して二人はいい関係だとは言えないものだった。それでも彼の言葉は、遠藤の胸へとまっすぐに向かってきた。まぎれもなく遠藤のことを考えて言っているのだとすぐにわかった。
 ――努力をして、頂点に立てなかった人たちはどれほどいるのだろう。
 ――彼らの為に何が自分に出来るのだろう。
 そして、多くのアスリートたちの苦悩を君は知っているよね? と言外に語りかけてきたのだ。
 その時に、いったい自分は何様のつもりだったのだろうと気が付いた。
 選ばれた人間なんていないんじゃないか。もし、いたとしてそれはどれだけの違いがあるんだろうかと。
 そう思った次の日の帰り道、遠藤は初めてヨシ君に声を掛けた。
 素振りをする横で腕を組んだまま、しばらく眺めていた。遠藤のことは向こうも前から目に留めていたようで、不審がることもなく、ちょっとだけバツが悪そうにして素振りを続けていた。
「……あご」「え?」
「あご、上がりすぎ」
「え、あ、はあ」
「それから、腕も伸びすぎ」
「え」
「そんなにひっぱらなくてもいい」
「あ」
「足も、開けばいいってもんじゃない」
「はあ」
 体をあちこち引っ張り、押して、結局全部を直した。
「え……このまま? きついよ、これじゃあ」
 本人には無理な姿勢に思えるのだろう、やりにくそうだった。
「これが基本。まだ、立っただけだ。それで振ってみて」
 一振りごとに直してやる。時間をかけて。
「やっぱり、なんか、へん」
「変じゃなくなるまで繰り返すといいよ。何万回も」
「ええっ? 何万回も?」
「そう、何万回も」
 そうだ。遠藤も繰り返したのだ。毎日、毎日、鏡の前で、グラウンドで、何万回も。
「おじさん、野球やってたの?」
「『おじさん』って……」
 まあ、この子から見ればおじさんか。苦笑しながら「ああ」と答えた。それからしばらく話をした。また見てくれる? と言われて、また通った時にならな、と約束をした。
 そうやって何度かヨシ君の指導をするようになった。それでもまだ、ほんの気まぐれだったにすぎない。
 ある日、待っているヨシ君の隣りに大人がいた。彼の所属するチームの監督だった。
 チームとはいっても近所で集まってやっている子供たちのお父さんの一人だったが。遠藤の顔を見るなり、他の子供たちにも教えてくれないかと言われた
 ヨシ君が急によくなったので、どうしたのかと聞いたら、遠藤のことを自慢げに話したのだという。
 初めは辞退した。教えるなんてそんなだいそれたことは出来ないと思った。それでも熱心に説得され、じゃあ、空いている日ならとしぶしぶ承諾した。監督の話振りだと他の子もヨシ君と似たり寄ったりだから、それなら気が楽かなと思った。
 教えてみると、監督に言われていた通り、どんぐりの背比べどころか、ハナクソを並べたような選手たちだった。基本も何もあったものじゃない。
 自分のやってきた野球とあまりにもかけ離れていて、カルチャーショックを受けたほどだ。よくこれで野球がやりたいなどと言ったものだ。
 それでもあまりにも穴だらけだったものだから、少し直してあげると本人にもわかるほどに上達をする。それが子供たちは嬉しかったらしい。



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