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遠藤の苦悩
9

 そのうちに、ハナクソ程度の自信をつけた彼らは、ちゃんとした試合がしたいと言い出した。それで遠藤に正式にコーチになってくれないかとまた頼まれた。
 遠藤の名前を知って、ネットなどで調べたらしい親が騒ぎ出し、新しく教えてくれというメンバーも現れた。
 冗談じゃない。
 そう思った背中を押したのも、充の一言だった。
「なんで? コーチなんてかっこいいじゃない。俺見たい。遠藤君のコーチ姿」
「そんないいもんじゃないんですよ。もうね、投げて、打って、走る。これしかまだ出来ないんですから。試合だなんてとんでもない」
 そう言ったら充がびっくりしたように大きく目を見開いた。
「それだけできれば十分じゃないか。立派な野球だよ」
「試合には相手がいるんですよ」
「投げて、打って、走るまで出来るんなら、あとは守って、繋げてを覚えればチームになる」
 今度はこっちがびっくりして充の方を見た。
「それを教えるのがコーチだろう?……チームが出来て、それから俺みたいな応援する人がいれば、ゲームになる。俺自身がプレーするわけじゃないけど、遠藤君が教えるチームなら、俺は応援するし、そうしたら、もう俺のチームだ。野球はプレーする選手だけのものじゃないよ」
 遠藤君は自分のためだけにしか野球をしなかった? と聞かれて、愕然とした。
 考えなかった。
 考えたこともなかった。自分は野球を自分のためだけにしてきた。
 己の技術の向上だけ、プロへの道の過程としてだけ鍛錬していた。
 勝つための作戦を考えるのは監督の役目だ。自分はその指示に忠実に従えばいい。監督の作戦が成功し、選手が指示に応えられれば勝つ。それが出来なければ負ける。それだけだった。
 勝つことはもちろん嬉しい。勝つために練習することだって疑っていない。でもそれは自分に勝つためだった。
「俺、そういうこと考えたことなかった」
「そう。じゃあ、これから考えられるね。楽しみだ」
 ああ、もう、本当にこの人には敵わない。無邪気に笑う恋人にそのまま襲いかかったのは言うまでもない。
 充に出会えてよかったと、出会えていなかったら俺はどうしていただろうかと、まだ苦しんでいただろうかと、こういう時に思い知らされる。
 あの嫌な夢を今でもよく見る。跳ね起きて汗だくになっている自分に、まだ未練があるのかと苛立つ夜がある。
 そんな夜に、ああ、充がいてくれたらなと、ふと思う。
 目を覚ました横にあるぬくもりを見つけるとあの悪夢の恐怖がすっと薄れていくのだ。  
 遠藤の夢の話をしたら、充はなんと言うだろう。きっとまた、思いもつかない言葉で遠藤を包んでくれるだろうか。
 いつか話したい。何もかも委ねて安心して眠りたい。今日も、明日も、その次もあの夢を見るんじゃないかと慄く夜を終わらせたい。 
 失う恐怖をより強く抱いているのは、実は自分の方なのかもしれない。
 その後ヨシ君の家に一度呼ばれた。お父さんがネットや知り合いの間を駆け回って探したというビデオを見せてくれた。
 それは遠藤がベスト四までに残った甲子園の試合の映像だった。
 ヨシ君の家族に囲まれて面映ゆい思いでそれを見た。ヨシ君は「すげえ! すげえ!」と興奮していた。
 何度も観た映像だった。ただ、あの時に気にも留めなかったものが、今は目に留まる。 
 華麗にプレーをする選手たちにではなく、アルプススタンドで汗だくになって声を涸らし、応援する後輩やチームメイト達の姿だ。
 彼らも一緒にプレーをしていた。一点に沸き、一点に泣き、希望を捨てずにチームメイトを信じて応援をしている。
 勝利を得た時の爆発するような喜びも、負けた時に流した涙の苦さも確かに覚えていて、思い出せば今でも瞼が熱くなる。
 だけど、今胸にくるのは彼らのこうした姿だった。
 今まで大事なことに気がつかなかった自分が恥ずかしくなる。
 でも、それと同時に、今気づけてよかったと、気づかせてもらえてよかったと、心から思った。
 その日遠藤は、正式にコーチの話を引き受けることにした。





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