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たったひとつ大切に想うもの
12

 夕飯を終えて部屋に戻って寝る段になって、もう一度風呂に入りたくなった。
 先にベッドに入って俺のスペースを開けてくれていた俊彦にそれを言うと「ちょっとこっちへおいで」と手招きされて傍まで行った。今はまだベッドには入りたくない。
「一日に何回も風呂に入ってるのか?」
「ええと、うん。なんか、入りたくなって」
「どうして?」
「わ、わからない。入りたく、なる。汚いの、落としたくて」
 起き上った俊彦が俺の腕を引いて、ベッドの端に座らせた。
「陸は汚くないよ」
「で、でも、なんか、やだ」
 そっと引かれた腕が少し痛んで顔を顰めたら、「見せてごらん」と促された。恐る恐るパジャマの袖を捲って腕を見せる。腕の傷を見た俊彦が眉を寄せた。
「これ、自分でやったのか?」
 押さえられた時に付いた指の痕を消そうとして何度も擦って、それでも納得がいかなくて爪で引っ掻いた。何本もの赤い筋がミミズのように這っている。擦って、擦って皮膚がこそげ落ちてなくなってしまえばいいと、何度も引っ掻いていたから。
「……ここ、汚いから」
「汚くないよ。陸はどこも汚れてない。陸は何にも変わらないよ。綺麗なままだ」
 優しく何度も綺麗だと言われて腕を擦られると、汚れが浄化されて綺麗になって行くような気がした。  
 目を閉じて、俊彦のされるままにじっとしていたら、擦っていた腕が背中に回ってきてふわっと包まれた。それはとても柔らかくてやさしい抱擁で、俺は俊彦の腕の中で安心して力を抜いた。
「……怖かったな」
「……こ、怖かった。凄く、怖かった」
 誰にも言ったことのない、俺自身も認めていなかった本心を初めて口にした。
 そうだ。本当は怖かった。怖くて怖くて叫びだしそうだった。
 誰も助けに来てくれない恐怖。笑いながら俺の体を押さえつけた強い力。平気だと自分に言い聞かせていなければ、狂ってしまいそうだった。
 心の中で何度も名を呼んだ。俊彦、助けて、と何度も叫んでいた。
「四人で、お、押さえつけられて、シャツ、を鋏で切られて」
 つっかえながら、どれだけ怖かったかを訴えた。俊彦は黙って聞いてくれた。あの時の恐怖を吐露することで、記憶を追い出したかった。救ってもらいたかった。
「殴られて、そしたら、み、耳がキインってなって、暴れると、腕、おる、折るぞって」
 回された腕に少し力が入って、きゅっと抱きしめられた。だけどあの時とは違って恐怖は感じず、もっとしっかりと捕まえていて欲しいと思った。
「体、さ、さ、さわ、られて……気持ち、悪いっ……て思って、汚くて、え、え、」
「大丈夫だよ。汚くない。汚いのは奴らだけだ。陸はどこも汚れてない」
 しっかりとした口調で俊彦が俺は汚くないと断言してくれた。
「……汚くない?」
 腕を解いて俺の方を向いた俊彦の顔を覗いて確かめた。
「汚くないよ……陸、見てもいいか?」
 そっと頤に触れた指が静かに降りて、パジャマのボタンにかかったまま止まった。
 小さく頷くと、俊彦は丁寧にボタンをはずしていった。不安はあったけど、俊彦に確かめてもらって汚れていないと言ってもらいたかった。
 最後まではずし終わった手が、俺が怖がらないようにゆっくりと左右に開かれた。素肌に羽織ったパジャマが肩から落ちる。
 腕同様に、体もあちこちに擦った跡がついて赤くなっている。奴の掌が辿った場所を何度も擦った。その場所に、今は俊彦の掌がある。嫌悪感はなかった。あいつの手の感触を俊彦の掌ですべて上書きしてもらいたかった。俊彦に触られるなら構わない。
「……陸」
 溜息みたいな声が聞こえて「ん」と返事をした自分の声も、溜息みたいになった。
 体を屈めて近づいた俊彦の唇が、俺の肩に触れた。それから首、顎、胸、脇腹と唇が移っていく。触れるだけの優しい愛撫だった。
 やがて上がってきた唇がもう一度「りく」と形作るのに見とれていたら、そっと近づいてきたそれが俺の唇に触れた。
「……ん」
 抵抗する気にもなれなくて、むしろずっと待っていたような錯覚に陥って、されるままに体を預けた。
「陸は綺麗なままだ」
「……うん」
「もう、怖くないな?」
「うん、怖くない」
 もう一度優しく抱きしめられて、安心して俊彦の背中に腕を回した。
「ずっと、一緒な」
「うん。約束」
 その日、俺と俊彦は絶対離れないと約束を交わした。





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